広島 原爆ドーム A-BOMB DOME | ひろしまナビ

広島 原爆ドーム A-BOMB DOME

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核兵器の惨禍を伝える建築物として世界遺産に登録

原爆ドームは、平成8年(1996年)12月、ユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議で、核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録されました。

指定範囲原爆ドームの所在する地域/約0.39ヘクタール

原爆ドームは、大正4年(1915年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、広島県美術展覧会や博覧会も催されていました。設立当初は「広島県物産陳列館」という名称でしたが、その後「広島県立商品陳列所」、昭和8年(1933年)には「広島県産業奨励館」に改称されています。

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾が炸裂したのは、広島県産業奨励館から南東約160メートル、高度約600メートルのところです。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという凄まじいもので、建物は爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼。爆風がほとんど垂直に働いたため、本館の中心部は奇跡的に倒壊を免れたものの、館内にいた人はすべて即死しています。戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋、鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。

被爆の痕跡・歴史的財産を伝承する被爆建物

原爆の強烈な爆風と熱線で、広島市内の建物の9割が壊滅的な被害を受けたとされています。時代とともに、被爆後に応急修復された建物や新たに求められる建物機能に耐えられなくなった建物が次々と姿を消していく中、被爆の痕跡・歴史的財産を伝承する建物として広島市が台帳に登録する、爆心地から5km以内に現存する建物のことを「被爆建物」と呼んでいます。被爆建物には原爆ドームをはじめ、現時点で86軒登録されています。

なぜ、ひろしまが選ばれた?

アメリカは原爆の威力を正確に測定できるよう、投下目標を直径3マイル(約4.8キロメートル)以上の市街地を持つ都市の中から選び、原爆の投下まで町並みを残すため、5月28日に目標都市への空襲を禁止しました。

そして7月25日には目標都市の広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに対する投下命令を下しました。広島を第一目標とする命令を出したのは8月2日。それは広島にアメリカ軍兵士などの捕虜収容所がないと思っていたためです。

原爆は目で目標を確認して投下することになっていました。8月6日、広島は晴れており、目で目標を確認する事ができたため、原爆が投下されました。

原爆ドームは爆心地から少し離れている

原爆 爆心地

テニアン島から飛来した米軍機B-29「エノラ・ゲイ号」によって、人類史上最初に使用された原子爆弾は、この上空約580メートルでさく裂しました。

幕臣直下となったこの一帯は、約3000度~4000度の熱線と爆風や放射能を受け、ほとんどの人びとが瞬時にその生命を奪われました。

時に1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分のことでした。

(現地点から見た北方の惨状 1945年11月 米軍撮影)

広島の原爆の爆心地は、相生橋の南東にある島病院になります。当初の投下目標は相生橋でしたが、風の影響により流されたとされています。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋です。原爆ドームから西に向かう橋がそれにあたります。この特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため目標に選ばれました。

原爆 爆心地

爆心地は、1969年に行われた調査によると、東経132度27分29秒、北緯34度23分29秒(誤差半径15メートル)、高度580メートル(誤差15メートル)が爆心であるとされいましたが、2002年、従来の爆心地より16m西側の島外科内科医院(広島市中区大手町1丁目5-25)の南西側が爆心地、爆心点も600mに見直されました。

原爆ドームへのアクセス

原爆ドームは広島市内の中心部にありますので、路面電車、めいぷるーぷ、エキまちループが利用できます。
路面電車は②③⑥⑦番線に乗り「原爆ドーム前」で下車、めいぷるーぷは、オレンジルート、グリーンルート、レモンルートに乗り「原爆ドーム前」で下車、エキまちループは、袋町か白神社前で下車になります。宿泊先から便利なルートを探しましょう。

原爆ドーム INFORMATION

住所 広島県広島市中区大手町1丁目10

アクセスJR広島駅から路面電車「原爆ドーム前」下車すぐ

専用の駐車場はありませんので、周辺の駐車場をご利用ください。

料金無料

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