ひろしまナビ は広島の観光に役立つ情報が満載です
ひろしまナビ では、広島の観光情報をお届けします。
広島への観光客は、毎年少しづつ増えています。2020年の東京オリンピック開催により、海外からの観光客も増加すると思われます。ひろしまナビ は、サイト上で言語を選ぶことが出来るので海外からの観光客の方々のお役に少しでも立てればと思います。
広島の生い立ちを知ればさらに広島の観光が面白くなる
広島は、市内に6本の美しい川が流れることから「水の都」と呼ばれ、その起源は1589年に毛利輝元が太田川の大きな三角州に広島城(別名「鯉城」)を築いた時にさかのぼります。この三角州が大きな島に見えたことから「広島」と名付けられ、広島は毛利氏、福島氏、浅野氏の城下町として栄えました。
築城当時、広島の海岸線は現在の白神神社あたりにあり、広島の街はほとんどが海で比治山や黄金山などは島でした。山の土砂などが太田川で運ばれて下流へ流され、長い年月をかけて川や海の中にたい積して新しい土地ができました。今から400年くらい前から、海に向かって人工的な埋め立てがくり返されるようになり、さらに新しい土地が作られ、今の広島市の地形の基礎ができあがったと言われ、その形から三角州と呼ばれています。
戦時中は、広島城とその周辺には多くの軍事施設がおかれるなど、軍都として重要な役割を果たしました。太平洋戦争では、軍事施設が集中していたことから破壊目標となり、1945年(昭和20年)8月6日、広島は人類史上初めての原爆の惨禍を受け、約14万人が亡くなりました。広島の原爆投下直後、上空に上がるキノコ雲は、四国からも見えたと言います。そして原爆による放射能の影響から、「広島には70年間は草木も生えない」と言われましたが、壊滅的な被害の中からめざましい復興を遂げました。
広島と聞いて思い浮かぶ場所や食べ物
多くの方が思い浮かべるのは世界遺産である嚴島神社や原爆ドーム、グルメでいうとお好み焼き、牡蠣、もみじ饅頭などではないでしょうか。
広島には、まだまだ観光の穴場スポットが沢山あります。
広島県の一部も含む「瀬戸内の島々」は、NYタイムズで2019年に行くべき場所として7位に選出され、世界的に注目を集める観光エリアでもあります。四季折々、様々な表情を見せてくれる広島はとても魅力的な街です。海沿いの鞆の浦や福山、内陸の帝釈峡や三段峡もおすすめしたい観光スポットです。
広島の観光では路面電車もチェックしてみよう
昔、路面電車はあらゆる都市で走っていましたが、交通渋滞の影響により廃線となりました。
現在、路面電車が走っている所は、札幌、函館、東京、富山、高岡、豊橋、福井、滋賀、京都、大阪、岡山、広島、高知、松山、長崎、熊本、鹿児島になります。
そのうち日本一の規模を誇るのは広島の路面電車です。広島市内を縦横無尽に走るだけでなく、安芸の宮島の玄関口である宮島口まで走ります。
広島電鉄の魅力といえば、長い連接車のノンステップ路面電車に乗れることと古い車両が多いことです。京都、大阪、神戸など関西の大都市で活躍した電車が昔の塗装のまま現役で働いています。
被爆電車として有名な650形
650形は、被爆電車として有名な車両です。当初5両が製造されましたが、現在は651号と652号の2両が1、3、5、7号線で運行されています。
三角州と路面電車の関係
三角州によってできた広島市の市街地は地盤が柔らかく、当時の技術では地下鉄を建設することができませんでした。三角州の特徴として平坦で高低差の少ない土地が広がっていることから、路面電車を走らせるのにとっても適していたため、広島市民の大切な移動手段として発展しました。
幻に終わった広島の地下鉄構想
1967(昭和42)年、広島で地下鉄の構想が持ち上がりました。当時、市やその周辺で人口が急増したことを背景に、郊外から市内へ流入するクルマが増え、市街地では渋滞もあって路面電車の表定速度が5km/hほどにまで悪化。車両が小さく輸送力が不足していました。山陽新幹線の開通を控え、交通渋滞を解消するため地下鉄が計画されました。
その後、1971(昭和46)年に発表された「広島都市高速鉄道計画」では、採算がとれる区間として、横川~矢賀間の「鯉城線」8.1kmと、西広島~向洋間の「東西線」9.7kmの2路線が打ち出されました。国鉄芸備線、可部線、呉線や広島電鉄宮島線にも乗り入れが予定され、15年計画で開通させる計画が立てられます。
路面電車はほぼ廃止の予定だった
地下鉄の事業計画では、広島電鉄の路面電車は地下鉄沿線から外れた区域だけ路線を残して廃止される予定でした。市内における路面電車の運行状況は深刻なレベルで悪化しており、年に10%以上の乗客が減り続け、約7億円もの赤字を出すほどでした。
しかし広島電鉄は路面電車を維持する姿勢を変えませんでした。当時の広島電鉄は住宅開発で大きな利益を上げていたため持ちこたえるだけの体力があったのです。そして行政との粘り強い交渉により、軌道内への自動車の乗り入れ禁止、電車優先信号の設置など、電車の運行を安定させる施策がとられていきます。こうして、広島電鉄の路面電車は急に息を吹き返し、「広島都市高速鉄道計画」が発表された1971(昭和46)年には、単年黒字を取り戻すことに成功します。
オイルショックの影響で地下鉄構想は宙に浮く
一方の地下鉄計画は、もともと市街地が河川の河口部に位置し地盤が悪いことから工事の難航が予想されていたうえ、1973(昭和48)年、1979(昭和54)と2度のオイルショックを経て建設費用も大幅に上昇し、宙に浮いてしまいます。そうしたなか、車両の大型化などを推し進めた広島電鉄は、20年間で乗客を4倍にまで増やし、単年で10億円近くの利益を出すまでに躍進しました。こうして人口に見合った輸送力を提供できるようになった路面電車を廃止してまで地下鉄を建設する意義は薄れていきました。
アストラムラインは地下鉄計画の一部
広島の新交通システムと呼ばれるアストラムラインは、1994(平成6)年に開通しましたが、その中心部側の地下区間およそ300m(本通~県庁前)は、地下鉄の新線建設などに使われる国土交通省の「地下高速鉄道整備事業費補助制度」によって建設されました。また、2001(平成13)年には県庁前駅、本通駅と広島バスセンター、そごう広島店、路面電車の紙屋町停留場などを結ぶ地下街「シャレオ」が開業しましたが、これは、昭和の地下鉄計画のなかで予定されていた複数の交通拠点を結ぶ「連絡通路」が具現化したものです。
戦後、路面電車と共に発展してきた広島は、路面電車の路線がある市街地のアクセスは良好ですが、市街地を外れると良好であるとは言えません。地下鉄計画が推進されていれば、広島は更なる発展を遂げていたかもしれません。
広島城は原爆の熱線に耐えて自重で崩壊した
広島観光で人気のスポットのひとつは広島城です。原爆で一瞬のうちに崩壊した広島の町並み。しかし広島城は一瞬のうちに崩壊したのではありませんでした。
広島城は、もともと熱に強い造りであったため熱線には耐えることができましたが、斜めに押しつぶされるように倒壊しています。原爆の爆風により天守閣の下二層の柱を破壊されたことが一番の原因です。上3層は形を保ったまま下にずり落ちてしまい、その後しばらくは形を保っていたものの、間もなく残りも柱が支えきれず崩壊したとされています。
二の丸の表御門・平櫓・多門櫓・太鼓櫓は消失しましたが、天守閣自体は燃えておらず、天守閣跡地に大量の燃えていない木材が残っていましたが、のちに建材やたきものにするために使用されました。
広島を東西に貫く平和大通り
広島市の中心部を東西に貫く「平和大通り」は、 鶴見町と福島町を結ぶ全長3,570mの道路です。
昭和19(1944)年末から防空対策として実施された建物疎開の跡地が、戦後の都市計画と結びつき「平和大通り」になりました。幅員100mであることから、通称「100m道路」とも呼ばれます。
日本の道100選の一つであり、沿道の広島平和記念公園とともに都市景観100選に選ばれています。また、毎年5月3日から5日に催される平和の祭典ひろしまフラワーフェスティバルの会場になっています。