広島には被爆建物が残っています。爆心地から5キロ以内に残る原爆ドームや旧日本銀行広島支店のほか、寺社などを「被爆建物」として登録しています。中には、現在も利用されている被爆トイレもあります。100件以上が登録されていた時期もありましたが、老朽化や移転のために取り壊された建物もあり、現在は86件になっています。
広島大学旧理学部1号館(旧広島文理科大学本館)
東千田公園の中にある鉄筋コンクリート構造3階建ての被爆遺構です。
当初は広島県初の大学である『広島文理科大学』として昭和6年に開校し現在の東千田公園と近隣の再開発地区などはすべて大学の敷地でした。太平洋戦争末期の昭和20年6月、本土決戦遂行のため内務省直轄の『中国地方総監府』に校舎の一部が接収されますがわずか2か月後の昭和20年8月に原爆が投下され外郭を残して全焼しました。
昭和24年から広島大学理学部の施設として利用され青空教室が一般的な終戦直後にあって広大な敷地と多数の校舎は貴重な教育施設としての役割を果たしました。その後、理学部校舎として実に60年間使用されましたが老朽化により外壁がはがれ始めたため、平成3年に広島大学理学部は東広島市へ移転し1号館を残してすべて取り壊されました。
旧赤十字病院(広島赤十字原爆病院)
広島赤十字病院は昭和14年『日本赤十字社広島県支部病院』として開業しました。しかし、日中戦争中の軍都広島での開業であったため開業わずか3ヵ月で『広島陸軍病院赤十字病院』と改名され軍属患者のみ入院できる陸軍指定病院となりました。
昭和20年8月の原爆投下では爆心地から1.6kmの距離であったため外郭を残して半壊し多数の死傷者を出しました。しかし、陸軍病院などが壊滅していたため市内で機能する病院は逓信病院とこの赤十字病院の2つしかなく、負傷者が殺到し被爆者医療の最前線として多くの負傷者を治療しました。
また、この時に院内に保管していたレントゲンフィルムが被爆によりすべて感光していたことから後に原子爆弾の使用が立証されました。
原爆の爆風で歪んだ旧病棟の窓
北に近い側(爆心地側)がめり込んでいて南側が押し出されるような形に歪んでいるのがわかります。
窓ガラスの破片が刺さった壁
割れた窓ガラスの破片がコンクリート製の壁に突き刺さった跡があります。
マルセル・ジュノー博士顕彰記念碑
スイス人のマルセル・ジュノー博士は赤十字国際委員会駐日代表として原爆投下直後に来日し、原爆投下後に医療活動を行った最初で最後の外国人医師です。博士が提供した15トンの医薬品で被爆した広島市民1万人が助かったとされており「ヒロシマの恩人」とも言われています。
旧三井銀行広島支店(広島アンデルセン)
被爆部分を保存し活用することで被爆建物を保存する
爆心地からの距離は360m。1925年(大正14年)三井銀行広島支店(現在の三井住友銀行広島支店)として建てられたもので、合併により帝国銀行広島支店となり、1945年(昭和20年)広島市への原子爆弾投下の際に全壊を免れました。1967年(昭和42年)アンデルセングループが建物自体を買い取りリノベーションし店舗として用いられていました。
旧日本銀行広島支店と同じように欧州風の銀行として建てられ大きな正面入口と内部にイタリア産の大理石が使われていました。被爆遺構として現存しているのは建物の一部で銀行時代の正面入口も無くなっているため、現在残っている部分はほとんどが戦後に修復されたものです。しかし、石造りの外観と2階まで吹き抜けの大広間は戦前の欧州風建築物の面影を見ることができます。
2018年(平成30年)にアンデルセンは開店50周年を迎えるにあたり店舗リニューアルを検討し建て替えが決定しました。しかし建て替えではあるが、被爆した外壁・ストリングコースの部分保存と新店舗の2階デザインは旧銀行部分のものとするという努力により、市による被爆建物登録が継続されました。
この建物は、戦後ヒロシマのシンボルとして原爆ドームとどちらを残すか議論が交わされた建物です。
旧日本銀行広島支店
広島市の重要有形文化財にも指定
爆心地からの距離は380m と至近距離にありながらも銀行という堅牢な造りから倒壊せず、わずか2日後から業務を再開しました。旧日本銀行広島支店は昭和11年に建てられた被爆遺構です。 古典様式の優れた外観を有する広島の昭和初期を代表する歴史的建築物で、被爆後も建設当時の姿をほぼ残しており、保存状態が最も良い建物になります。
戦後、平成4年に日本銀行広島支店は基町へ移転し平成12年の広島平和記念都市建設法により広島市に条件付きで無償寄与されました。 現在は建物公開もかねてイベント開催やギャラリー使用の場として使われています。
本川小学校平和資料館(旧本川尋常高等小学校)
爆心地にもっとも近い小学校
爆心地からの距離は350m の至近距離にあったため教員生徒410人が一瞬にして亡くなり生き残ったのはたった2人でした。 爆心地にもっとも近い小学校で、広島市内の公立小学校では最初の鉄筋コンクリート造3階建ての校舎として建てられました。昭和3年竣工した旧校舎は広島市内初の鉄筋コンクリート製校舎で、地上3階地下1階のブロックプランにホールやアーチ形の正面玄関を取り入れたモダンな校舎でした。
戦後、昭和21年2月から応急補修をして授業が再開され、その後も補修や改修を行い校舎として使用されましたが昭和63年に老朽化のため学校は新校舎へ移転となりました。現在は1階と地下のみ平和資料館として保存され上階は取り壊されています。「はだしのゲン」に出てくる小学校は、この本川小学校です。
袋町小学校平和資料館
旧校舎の一部分は平和資料館として活用
爆心地からの距離は460m。広島原爆で焼け残った旧校舎の一部は現在平和資料館として活用しており、現存する被爆建物の一つです。敷地内の建物は、小学校校舎・平和資料館および袋町児童館・広島市まちづくり市民交流プラザの複合施設になっています。児童や教職員、地域の人々の安否を尋ねるために壁に書かれた伝言が、当時の状況を知る貴重な資料として公開されています。
福屋百貨店
被爆の翌年にはいち早く営業を再開
爆心地からの距離は710m。爆風と熱風により窓は吹き飛ばされ外郭を残して内部全焼しました。当時は珍しい冷暖房設備を備えた近代的で豪華な建物で「白亜の殿堂」と持てはやされました。被爆翌年の1月にはいち早く営業を再開しました。4度の増改築を重ねましたが、電車道路沿いの外観は被爆前の1938年に完成した当時そのままの姿が残っています。
被爆建物でありながら80年近く経った現在も百貨店として営業を続けています。
広島電鉄動力車操縦者養成所(旧広島電鉄千田町変電所)
広島電鉄千田町変電所は広島電気軌道(後の広島電鉄)が大正元年に路面電車事業を開業する際に建てた建物です。昭和9年に老朽化と能力低下を理由に発電所は廃止され、以降電力は広島電気(後の中国電力)から供給を受けますが変電所はそのまま使用され続けます。
昭和20年8月の原爆投下ではレンガ壁が変形するなど被害が出ましたが倒壊せず、たった3日間で路面電車が復旧できたのは千田町変電所が健在だったからといわれています。
昭和33年以降、変電所はベンガラで塗装され現在は白い防水塗装がされているため一見するとレンガ造りの遺構に見えなくなっていますが、旧発電所は昔ながらのイギリス積みのレンガ壁が残っています。
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