広島 原爆関連の慰霊碑 | ひろしまナビ

広島 原爆関連の慰霊碑

この記事は約60分で読めます。
スポンサーリンク

広島市内に点在する原爆関連慰霊碑

広島市内には原爆関係の慰霊碑等が数多く設置されています。平和記念公園周辺には50基あります。散策しながら探してみましょう。

原爆関連の慰霊碑等の概要(中区内:123基)

地区
小学校区
中学校区
名称
建立年月日
所在地
碑文、追悼歌
平和記念公園周辺01
 
世界の子どもの平和像
2001年8月6日
中区基町5番(旧広島市民球場南)
核兵器のない世界のために この像はヒロシマの子どもたちの 愛と平和のメッセージです 2001年8月6日建立
平和記念公園周辺02
(39)
 
中国・四国土木出張所職員殉職碑
1954年8月6日
中区大手町一丁目10番(原爆ドーム北西)
原爆のいけにえとなりし人ひとは なごみゆく世のいしずゑにして 阿部一郎(歌碑) 
元内務省中国・四国土木出張所職員52名は国民義勇隊員として作業中昭和20年8月6日の原爆並びに戦災により平和の礎となりこの地に眠る 昭和29年8月6日 建設省中国・四国地方建設局職員一同建之(歌碑背面)
 
平和記念公園周辺03
(40)
 
広島県地方木材統制株式会社慰霊碑
1967年8月6日
中区大手町一丁目10番(原爆ドーム北東)
此のドームは第2次世界大戦時吾国の木材統制機関であった広島県地方木材株式会社の本社として職員260名の本拠であったが昭和20年8月6日午前8時15分至近上空に原爆投下され不幸にも役職員100余名がドーム内外において被爆殉職した ここに原爆ドーム永久保存の決定をみて当時の社長田中好一氏の発起により生存の旧役職員相集いその霊の冥福を祈るとともに世界永久平和を祈願して之を建碑する 併せて木材統制機関の日本木材株式会社広島支店及び広島船舶木材株式会社の殉職者を合祀する 昭和42年8月6日 広島県地方木材株式会社 旧役職員有志(背面)
 
平和記念公園周辺04
(41)
 
原民喜詩碑(佐藤春夫の詩碑の記)
1951年11月、広島城跡に建立。1967年、現在地に修復移設
中区大手町一丁目10番(原爆ドーム南東)
碑銘 原民喜 遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻(正面)
原民喜詩碑の記 原民喜は人がら清純沈欝に流俗と遇ひ難い詩人であった。1951年3月13日夜、東京都西郊の鉄路に枕して濁世を去った。蓋しその生の孤独と敗戦国の塵労とは彼の如き霊の能く忍ぶところではなかった。遺書17通、先ず年来の友情を喜こび、さてさりげなく永別を告げんと記し、うち2通の文尾に書き添へた短詩「碑銘」は思いを最後の一瞬に馳せて亡妻への追慕と故郷破滅の日を記した力作「夏の花」に寄せる矜持と又啼泣とを「一輪の花の幻」の1句に秘めて46年の短生涯を自ら慰め弔ふもの。辞は簡に沈痛の情は深い。遺友等ために相謀り地を故郷に相し銘記せしめて之を永く天地の間に留めた。 1951年7月13日夜 遺友中の老人佐藤春夫記す(背面)
 
平和記念公園周辺05
(42)
 
動員学徒慰霊塔
1967年5月
中区大手町一丁目10番(原爆ドーム南東)
第2次世界大戦中増産協力等いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は、全国にわたり三百数十万。あたら青春の光輝と、学究の本分を犠牲にしつつ挺身した者のうち、戦禍にたおれた者一万有余人。その六千余人は原爆死を遂げた。この塔は明眸青雲を望み、将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく、祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと有志同胞の手によってうち建てた。
 
平和記念公園周辺06
(16)
 
原爆の子の像
1958年5月5日
中区中島町1番(平和記念公園レストハウス北西)
これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための(正面)
原爆で亡くなった兄姉の霊をなぐさめ世界に平和を呼びかけるために広島市小・中・高校の子供が結集し全国の友達の支援のもとにこれをつくる(背面)
平和記念公園周辺07
 
平和の石塚
1972年8月2日
中区中島町1番(原爆の子の像北)
永年にわたり友情に結ばれているフォート・ウィリアムとダットレイの青年から善意と調和と世界平和を願うシンボルとして、この石を広島の青年に贈る。この石は特にイギリス最高峰ベン・ネビス山から切り出した(訳)
平和記念公園周辺08
(7)
 
平和の時計塔
1967年10月28日
中区中島町1番(相生橋南詰)
核原子力の出現により、人類はいま生か死か、破滅か、繁栄かの岐路に立っている。ひろい世界を同じ心で一つに結ぶ、全世界のライオンズ会員が平和実現のために果たす役割りは大きい。原爆ドームの永久保存に呼応し、人類が初の原爆の洗礼を受けた時刻、8時15分に、毎日全世界に向けこの時計塔のチャイムが「ノーモアヒロシマ」を強く訴え、人類の恒久平和実現の一日も早からんことを祈り、この時計塔を建設し、市に贈るものである。 昭和42年10月28日 チャーター伝達10周年を記念し 広島鯉城ライオンズクラブ
平和記念公園周辺09
 
遭難横死者慰霊供養塔
1957年9月
中区中島町1番(原爆供養塔北)
為原爆遭難横死者慰霊
平和記念公園周辺10
(9)
 
原爆供養塔
1955年8月
中区中島町1番(相生橋南)
世界最初の原子爆弾(昭和20年8月6日午前8時15分)による犠牲者数万柱の遺骨を納める。この地一帯が爆心地であったため、期せずして、ここに痛ましい無数の遺骸が運ばれ処理せられたものである。 昭和21年1月広島戦災供養会が創立せられ、同5月仮供養塔、同7月仮納骨堂・礼拝堂が市民の喜捨により建立せられ、昭和30年7月満10周年を期して、広島市が中心となって、納骨堂を改築せられ、各処に散在していた遺骨を此処に納めた。毎年8月6日には全県市挙げて追悼の誠をこめた供養慰霊祭が行われるほか、毎月6日例祭が行われている。供養行事は広島県宗教聯盟が奉仕するほか、各宗教派別による特別供養も厳修せられている。 広島戦災供養会(説明板)
 
平和記念公園周辺11
(8)
 
平和の鐘
1964年9月20日
中区中島町1番(原爆供養塔北東)
平和の鐘 この梵鐘、鐘堂は広島の悲願に立って、すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとしてつくりました。 この梵鐘、鐘堂は平和を願う万人の心と浄財を結晶させてつくりました。 この鐘の音を、広島から、世界のすみずみまでひびきわたらせ、全人類の1人1人の心にしみわたらせることを願っております。 この趣旨、目的を御理解の上、平和への願いをこめておつき下さい。 昭和39年9月20日建之 広島悲願の会(説明板)
 
平和記念公園周辺12
(10)
 
平和の石燈
1955年8月6日
中区中島町1番(原爆供養塔南)
閑思清和(正面)
被爆33回忌にあたりここに記す平和石燈の詞(昭和52年) 人生は起きて半畳、寝て1畳と申し畳の上で産声をあげてより畳の上で暮らし畳の上で入寂することが無上の仕合せとしております。原爆犠牲者の御霊の安らかな冥福を祈り、台石を特に畳の形とし常住畳の上で閑思清和の四季、旦座喫茶、合掌して永遠に献茶奉仕を捧げます。台石の高さは1年12カ月をもって1尺2寸とし、炉には2寸の縁をとり燈籠の高さは炉壇の寸法1尺5寸、台石との開きは8月6日を2分して4尺と3尺としました。 畳の上では主客平等で差別なく、浄水池は日の丸を型どり、108の煩悩によせて直径1尺8分とし、深さは3寸、昼は万物根源の太陽の徳を、夜は水の恩を賛えて、池中に映る月影を下化衆生の相、見仏聞法への心からなる手向けとしました。 昭和30年8月6日建設 発願建設者 淡交会広島支部長 石井淡笑斉宗寿(説明板)
平和記念公園周辺13
(11)
 
韓国人原爆犠牲者慰霊碑
1970年4月10日
中区中島町1番(原爆供養塔南)
慰霊碑の由来 第2次世界大戦の終り頃 広島には約10万人の韓国人が 軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。 1945年8月6日原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。 広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる数字ではない。 爆死した これら犠牲者は誰からも供養を受けることなく、その魂は永くさまよい続けていたが、1970年4月10日在日本大韓民国居留民団広島県本部によって悲惨を強いられた同胞の霊を安らげ原爆の惨事を二度と くり返さないことを希求しつつ平和の地、広島の一隅に この碑が建立された。 望郷の念にかられつつ異国の地で爆死した霊を慰めることはもとより 今もなお理解されていない韓国人被爆者の現状に対しての関心を喚起し、一日も早く良識ある支援が実現されることを念じる。 韓国人犠牲者慰霊祭は毎年8月5日この場所で挙行されている。 在日韓国青年商工人連合会及び有志一同(説明板)
 
平和記念公園周辺14
(12)
 
被爆した墓石(慈仙寺跡の墓石)
1689年
中区中島町1番(原爆供養塔南)
平和記念公園周辺15
(15)
 
平和の泉
1960年9月1日
中区中島町1番(原爆の子の像南西)
平和記念公園周辺16
(13)
 
平和乃観音像
1956年8月6日
中区中島町1番(原爆供養塔南)
平和乃観音(正面)
嗚呼中島本町の跡 昭和31年8月6日 中島本町建之 広島市長渡辺忠雄謹書(背面)
嗚呼中島本町の跡 この地は明治・大正・昭和の初期広島で最も繁華の中心であった 昭和20年8月6日原爆一閃町民全員一瞬にして悲惨なる最後を遂げたり 生き残れる有志相集って平和観音像を建立し永遠にその霊を慰む 毎年8月6日午前9時より平和観音前に於て慰霊祭を執行いたしますので多数御参詣下さい 中島平和観音会有志(横の石碑)
平和記念公園周辺17
(3)
 
義勇隊の碑
1964年8月6日
中区中島町1番(本川河岸、国際会議場北西)
謹みて義勇隊員の霊にささぐ 我等みな忘れまじ 悲しみて余りある惨状の日を そは昭和20年8月6日午前8時15分なり 原爆この地に投下され 阿鼻叫喚の巷の中で 苦悶のはてに 吾がはらからは いまここに眠る 軍の至上命令とはいえ174名の尊き犠牲者 当日早朝より家屋疎開の作業に従事す その名川内村義勇隊旧安佐郡川内村温井部落居住者なり 戦禍の憎しみ今ここで言うをまたず 我等遺族その若き命をささげし霊に対し断腸の思い果つるを知らず ここに遺族一同相はかりて その尊き犠牲を永久に語りつたえ 今平和のきざしこの地より出ずるにあたり 霊よとこしえに安かれと祈念し この碑を建立す 昭和39年8月6日 安佐郡佐東町川内温井 遺族一同(横の石碑)
 
平和記念公園周辺18
(4)
 
広島県立第二中学校慰霊碑
1961年8月6日
中区中島町1番(本川河岸、国際会議場西)
戦災並に原爆にて死没された元広島二中職員生徒352名のなつかしい名簿を此の碑の背面に記し永久の思ひ出と慰霊のよすがと致したいと思ひます 昭和36年8月6日遺族一同(碑)
なぐさめの言葉しらねばただ泣かむ 汝がおもかげといさをしのびて 元県立広島二中校長 古田貞衛(横の追悼歌碑正面)
嗚呼 昭和20年8月6日学徒動員作業中戦災並に原爆により教官7名生徒343名平和の礎となる 昭和28年8月6日 広島県立第二中学校遺族一同建之(横の追悼歌碑背面)
平和記念公園周辺19
(5)
 
広島市立商業・造船工業学校慰霊碑
1963年8月6日
中区中島町1番(本川河岸、国際会議場南西)
 
青天の霹靂とはまさにこのことであった 昭和20年8月6日午前8時15分 われらの郷土広島は ただの1発の原子爆弾によって この世ながらの地獄を現出し 一瞬にして壊滅した われらが母校広島市商は 当時造船工業に転換を余儀なくされていたのであるが 当日学徒動員市内建物疎開作業に出勤中の 生徒270名付添職員3名もまた 全滅の悲運に遭った われらは年少の諸君の清純熱烈な愛国の至情に想いを致し 可憐悲痛全くいうべき言葉を知らない われらここに殉難生徒職員各位の諸霊の冥福を祈り かくの如き悲劇の再び人間の手によってくり返さしめざることを誓うとともに 併せて今次大戦を通じて戦列に参加し奮戦苦闘武運拙くも散華して護国の鬼と化した多数の旧市商同窓生各位の英霊をも弔うべくこの碑を建立し われらの微衷を永く後世に伝えんとするものである 昭和38年8月6日 広島市商同窓会・造船学校遺族 広島市商業学校長 田中浩造 撰文(横の石碑)
 
平和記念公園周辺20
 
慈母の像
1961年8月6日
中区河原町1番(平和大通り緑地帯、西平和大橋西詰南)
慈母の像 平和の鳩を はなち給ふ 自得(台座正面)
平和記念公園周辺21
(33)
 
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
1971年8月6日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、国際会議場南)
太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり 篠枝(台座背面)
平和記念公園周辺22
(32)
 
平和の像「若葉」(湯川秀樹歌碑)
1966年5月9日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、国際会議場南)
まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞ ここは 湯川秀樹
平和記念公園周辺23
(34)
 
友愛碑
1965年8月3日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、国際会議場南)
友愛
平和記念公園周辺24
(36)
 
旧天神町南組慰霊碑
1973年7月15日
中区中島町4番(元安川河岸、平和大橋西詰南)
慰霊
平和記念公園周辺25
(35)
 
広島市立高等女学校原爆慰霊碑
1948年8月6日
中区中島町1番(元安川河岸、平和大橋西詰)
E=MC(正面)
友垣にまもられながらやすらかに ねむれみたまよこのくさ山に 昭和23年8月6日 宮川雅臣(背面)
この碑は昭和20年8月6日8時15分この地附近で家屋疎開作業中原爆に遭って全員殉職した広島市立第一高等女学校報国隊職員生徒679柱の霊を弔うため遺族会が昭和23年忌日母校校庭に建立同32年13回忌に現地に移したものである。 碑面の浮彫は河内山賢祐氏の作で国家の難に挺身した可憐な生徒たちを「あなたは原子力(E=MC2)の世界最初の犠牲として人類文化発展の尊い人柱となったのです」と慰めている姿をあらわしている(横の石碑の背面)
平和記念公園周辺26
(29)
 
マルセル・ジュノー博士記念碑
1979年9月8日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和大橋西詰)
1945年8月9日赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日 広島の原爆被災の惨状を聞くや直ちに占領軍総司令部へ行きヒロシマ救援を強く要請 9月8日調達した大量15屯の医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実情を調査 自らも被爆市民の治療にあたる 博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所へ配布 数知れぬ被爆者を救う 博士の人道的行為に感謝し 国際赤十字のヒューマニズムを讃え永く記念してこれを建てる(正面、日英併記)
無数の叫びがあなたたちの助けを求めている(背面)
平和記念公園周辺27
(53)
 
ノーマン・カズンズ氏記念碑
2003年8月2日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和大橋西詰)
世界平和は努力しなければ達成できるものではない 目標を明確に定め責任ある行動をとることこそ人類に課せられた責務である ノーマン・カズンズ(日英併記)
平和記念公園周辺28
(57)
 
バーバラ・レイノルズ氏記念碑
2011年6月12日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和大橋西詰)
私もまた被爆者です 私の心は いつも ヒバクシャ ヒロシマ とともにあります バーバラ・レイノルズ 広島市特別名誉市民 ワールド・フレンドシップ・センター創立者 2011 ワールド・フレンドシップ・センター(日英併記)
平和記念公園周辺29
 
平和の塔
1974年10月30日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和大橋西詰)
平和記念公園周辺30
(31)
 
嵐の中の母子像
1960年8月5日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和記念資料館本館南)
嵐の中の母子
平和記念公園周辺31
(30)
 
祈りの泉
1964年11月
中区中島町1番(平和記念資料館本館南)
平和記念公園周辺32
(25)
 
全損保の碑
1965年8月6日
中区中島町1番(平和記念資料館東館北)
なぜ あの日は あった なぜ いまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを
平和記念公園周辺33
(23)
 
峠三吉詩碑
1963年8月6日
中区中島町1番(平和記念資料館東館北)
ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ 峠三吉(正面)
平和記念公園周辺34
(22)
 
材木町跡碑
1957年8月6日
中区中島町1番(平和記念資料館東館北)
材木町跡
平和記念公園周辺35
(20)
 
広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)
1952年8月6日
中区中島町1番(平和記念資料館本館北)
安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから
平和記念公園周辺36
 
平和祈念像
1977年8月2日
中区中島町1番(原爆死没者慰霊碑北西)
 
昭和20年8月6日原子爆弾の一閃は全市を廃墟と化し、20有余万の生命を奪い去った事実は世界史上初の一大痛恨事として永遠に忘れる事は出来ない。 爾来幾星霜、我々は地下に眠る精霊歔欷の声に応え平和を求め続けて来たが、いまだに核戦争の脅威と人類滅亡の不安に脅かされている。よって我々は原爆犠牲者の生命を永遠ならしめ、人類悠久の平和を願うためかねて全国の児童生徒に呼びかけ浄財の募金運動を展開し、有志団体の協力を得て、今こゝにこの像建立の目的を達した。我々の願いは必ずや世界恒久平和への道に通じるものと確信する。 昭和52年8月(台座背面)
 
平和記念公園周辺37
 
菩提樹の碑
1959年2月6日
中区中島町1番(原爆死没者慰霊碑北西)
原爆犠牲者の霊にこの菩提樹を捧ぐ 濱田頓蔵寄贈(日英併記)
平和記念公園周辺38
(18)
 
平和の灯
1964年8月1日
中区中島町1番(原爆死没者慰霊碑北)
平和記念公園周辺39
 
祈りの像
1960年8月15日
中区中島町1番(原爆死没者慰霊碑北東)
平和記念公園周辺40
(19)
 
平和の池
1957年7月31日
中区中島町1番(原爆死没者慰霊碑北)
平和記念公園周辺41
(21)
 
旧天神町北組慰霊碑
1973年2月
中区中島町1番(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館南)
昭和20年8月6日憶
平和記念公園周辺42
(45)
 
広島郵便局職員殉職の碑
1975年8月
中区大手町一丁目9番(元安橋東詰南)
広島郵便局職員288名原爆により殉職
平和記念公園周辺43
 
平和祈念碑
1984年6月24日
中区大手町一丁目9番(元安橋東詰南)
全人類の恒久平和のシンボルとして被爆の体験をもつ姉妹都市広島と長崎の両クラブがこの碑を建立する(日英併記)
平和記念公園周辺44
(46)
 
原爆犠牲建設労働者・職人之碑
1988年8月5日
中区大手町一丁目9番(元安橋東詰南)
慰霊 原爆犠牲建設労働者・職人之碑(正面) 
全建総連に結集する43万人の総意にもとづき 原爆の犠牲となられた建設労働者・職人と家族の霊を慰め 地球上から一切の核兵器をなくし 平和で豊かな社会をつくることを念願しここに建立する 1988年8月5日 全国建設労働組合総連合会・広島県建設労働組合(背面)
平和記念公園周辺45
 
「平和の祈り」句碑
1987年11月12日
中区大手町一丁目9番(元安橋東詰南)
悲しみの 夏雲へむけ 鳩放つ
平和記念公園周辺46
(49)
 
石炭関係原爆殉難者慰霊碑
1957年8月6日
中区大手町二丁目5番(元安橋東詰南、大手町第一公園内)
為原爆殉難者慰霊
平和記念公園周辺47
(47)
 
原爆犠牲ヒロシマの碑
1982年8月5日
中区大手町二丁目12番(元安橋東詰南)
天が まっかに 燃えたとき わたしの からだは とかされた ヒロシマの叫びを ともに 世界の人よ(正面)
この記念碑は 原子爆弾のさくれつによって 悲惨な死をとげた犠牲者たちをしのぶブロンズ像と 熱線をあびてとかされた「力ワラ」とで 構成されている。 かわらの表面にある あわだち・火ぶくれ状の変化は これらのかわらが 想像もつかない 高い温度で焼かれたことを示しており 『広島・長崎の原爆災害』によると 爆心地(爆発点直下の地上点)の温度は 摂氏約4,000度 爆心地から1,000米の地点でも 摂氏1,800度であった とされている。 この記念碑は 爆心地から 南141米の地点にあり 護岸にそって流れる元安川は 「あの時」 市民たちのしかばねでうまった。 1977年以降 平和記念公園一帯で 体験学習を続けていた広島の高校生たちは 元安川河床の泥土の中から 数千点にもおよぶ 被爆したかわらの破片を ほりだした。 生徒たちは これを「原爆がわら」とよび 焼けくずれたこれら瓦片に 被爆死をとげた人間の地獄図の中の叫び 苦しみを 重ねあわせながら 被爆体験を聞く学習活動をすすめた。 そして 核戦争の悲惨さと 核兵器廃絶への課題を学びつつ 平和への決意を固めあう記念碑の建立を発起し 全国募金運動に たちあがった。 呼びかけに こたえ 全国の小・中・高等学校の児童・生徒たちや 一般市民から寄せられた募金は 二千万円をこえ「あの日」凄惨をきわめた 爆心地に近い元安川のこの岸辺に「原爆犠牲 ヒロシマの碑」 は 建立された。 “ふたたび戦争の悪業を重ねてはならない 原爆の惨禍をくりかえしてはならない。” 爆発点直下にあって 一瞬にして その命を絶たれた人びと 熱線・爆風・放射線による 原爆症およびその後障害によって犠牲となった 二十数万の人間の 痛恨の叫びを ここに永遠に記し 「ヒロシマの心」として 訴えつづけるものである(背面、日英併記)
 
平和記念公園周辺48
(48)
 
広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑
1967年8月2日
中区大手町二丁目12番(元安橋東詰南、大手町第一公園西)
1945年8月6日被爆
平和記念公園周辺49
(50)
 
広島県農業会原爆物故者慰霊碑
1971年8月6日
中区大手町二丁目12番(平和大橋東詰北)
昭和20年8月6日午前8時15分広島市上空に炸裂した1発の原子爆弾により全市は一瞬にして壊滅し阿鼻叫喚の巷と化す 猛火市井を襲って廃墟となり広島県農業会役職員80余名尊き犠牲となる ここ広島支所の在りしゆかりの地に近く碑を建立して犠牲者の霊を祀る。
平和記念公園周辺50
(51)
 
被爆動員学徒慰霊慈母観音像
1966年7月31日
中区大手町三丁目14番(平和大橋東詰南)
観音となりて平和を守りゆく 少年学徒らの みたま尊し 山本康夫(台座) 
慈母観音に抱かれ眠る 汝が姿心にえがきて われら安らぐ 益田礼助(築山)
白島01
幟町01
安田高等女学校職員生徒慰霊碑
1951年5月
中区白島北町1番41号(安田学園白島キャンパス内、中学校校舎東)
この慰霊碑は昭和20年8月6日広島市に投下された原爆により尊い生命を失った職員13名及び生徒310余名の霊永久に安かれと祈念し職員生徒の奉仕を得て安田学園が建立したものである。
白島02
幟町02
工兵第五連隊慰霊碑
1983年11月
中区白島北町1番(工兵橋南詰、安田学園白島キャンパスプール北)
工兵第五聯隊跡地(正面)
工兵第五聯隊 工兵第三十九聯隊 船舶工兵部隊 昭和五十八年十一月建立(背面)
白島03
幟町03
白島九軒町原爆死没者慰霊碑
1998年5月10日
中区白島九軒町25番(白潮公園内)
原爆死没者を火葬したこの地に慰霊の碑を建て哀悼の意を表すると共に世界平和を念願する。 平成10年4月吉日建之 白島九軒町町内会 会長 国分良徳(背面) 
原爆慰霊碑建立の趣意 爆心地より1.7キロ離れた白島九軒町は、被爆後火災によりほとんど焼失しました。 火に追われこの河原に避難し火傷、負傷で苦しみながら悲惨な死を遂げた町民を火葬にしたこの地に、慰霊碑を建立し死没者の冥福を祈ると共に世界の平和を祈念します。 平成10年5月吉日 白島九軒町町内会(横の木札)
 
白島04
幟町04
郵政関係職員慰霊碑
1976年8月6日
中区東白島町19番8号(日本郵政グループ広島ビル前庭)
慰霊のことば 昭和20年8月6日午前8時15分、世界最初の原子爆弾が広島の地に投下され、一瞬にして街は焦土と化し、20数万の尊い生命が失われました。 焦げ付く太陽の下、炎に追われながら水を求めてさまよい歩く被災者は数知れず、また、焼けただれた遺体が至る所にころがり折り重なって、まさに焦熱地獄の惨状を呈したといわれております。 郵政部内においても、当時の広島郵便局の288人をはじめ、西部逓信総局広島逓信局・広島逓信病院・広島地方貯金局・広島市内各郵便局の職員等、合わせて500有余人が尊い犠牲となられたことは、誠に痛恨の極みであります。 あれから30有余年が過ぎた今日も、原爆の後遺症に苦しんでおられる人が多いことを思うとき、再びこのような悲劇が繰り返されてはなりません。皆様の霊を慰め永遠の平和を祈念するため、昨年被爆30周年を機に、遺族・退職者・全逓労組・全逓被爆者の会、並びに、郵政局・監察局、それぞれの代表者により、「原爆慰霊碑建設委員会」を設け、有志の浄財によってこの碑を建立しました。どうか安らかにお眠りください。昭和51年8月6日 原爆慰霊碑建設委員会(背面)
白島05
幟町05
国鉄原爆死没者慰霊碑
1973年8月6日
中区東白島町23番(東白島公園内)
天を撃つな 戦雲を射て 人を撃つな 戦禍を射て 原爆広島に眠る 無名の霊よ 国鉄の魂よ 霊の目はみつめ 魂の手をつかむ 平和と未来とを(前の石碑)
基町01
幟町06
電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑
1955年8月
中区基町6番77号(第7棟NTT西日本基町ビル(NTTクレド基町ビルの西隣)北西)
ひろしまの追憶は 世界の追憶であれ ひろしまの嘆きは世界の嘆きであれ 天地くだけたる日のくるしみを 告ぐることなく わが友は ここに眠る。 原爆10周年にあたり日本電信電話公社職員の心からなる據金によってこれを建つ。(背後の壁面)
昭和20年8月6日午前8時15分 晴れわたった空に閃光一閃 一瞬のうちに広島は廃墟と化してしまいました 当時広島では緊迫した情勢の中で約2000名の職員が電信電話の仕事にたずさわっていましたがそのうち600名近くの人たちがとうとい命をうしなわれ 平和のいしずえとなられました この慰霊碑は原爆10周年にあたる昭和30年8月 亡くなられた方々への心からの追悼とみたま安かれとの願いをこめて日本電信電話公社の職員の手によって建てたものです(横の石碑)
 
基町02
幟町07
日本銀行広島支店職員慰霊碑
1966年8月6日
中区基町8番17号(日本銀行広島支店4階)
基町03
幟町08
水道部員殉職之碑
1949年8月6日
中区基町9番32号(広島市水道局駐車場東)
為原子爆弾罹災者建之(背面)
三上水道部長外82名(右側面)
基町04
幟町09
中国軍管区司令部軍人・軍属・動員学徒慰霊碑
1979年5月
中区基町21番(広島護国神社東)
原爆に散華された旧中国軍管区司令部軍人軍属(旧広島師団司令部)・旧比治山高等女学校動員学徒の皆様 いつもあなたたちを憶う 8月6日を思う あなたたちの尊い犠牲を無にすることなく とわに世界の平和に結びつけたい どうぞお心安らかに(背面)
基町05
幟町10
広島陸軍病院原爆慰霊碑
1955年8月6日
中区基町22番(三篠橋東詰南、本川河岸緑地)
昭和20年(1945)8月6日広島が人類最初の原子爆弾により、一瞬にして20数万の尊い犠牲者を生じるに至った。爆心地に極めて近かった元広島陸軍病院に勤務の職員以下及び入院中の患者等で被爆死された方々の御霊を永遠にお祀りするため、同病院関係の生存者で職員・その他有志並びに遺族賛助者等により、広島陸軍病院原爆慰霊会を結成し昭和30年8月6日原爆10周年を記念しこの病院跡に当時の表門石柱を碑とし台石は全部病院の庭石等を用い、ここに「広島陸軍病院原爆慰霊碑」を建立した。 ついで同50年8月6日30周年記念行事として合祀名碑の建立並びに同病院の遺跡(明治以来の記念碑及び被爆当時の裏門石柱など)保存と併せて敷地の整備をも計画し昭和52年8月6日完成するに至った。御霊よ どうぞ 安らかに お眠りください。 合掌 昭和52年8月6日 誌之。 広島陸軍病院原爆慰霊会(横の合祀名碑背面)
 
幟町01
幟町11
広島法曹原爆物故者慰霊碑
1965年8月6日
中区上八丁堀2番43号(広島高等・地方・簡易裁判所、西側前庭)
敬憶
幟町02
幟町12
国税職員原爆慰霊碑
1965年8月6日
中区上八丁堀6番30号(合同庁舎中庭、1号館附属棟西)
和(正面) 
原爆により死没した国税職員のみたま安かれと祈り とこしえの平和を祈念してこれを建てる。 昭和40年8月6日 国税職員一同・同出身者一同(背面)
幟町03
幟町13
広島通産局慰霊碑
1977年8月6日
中区上八丁堀6番30号(合同庁舎中庭、1号館附属棟西)
祈(正面)
昭和20年8月6日 広島に投下された原子爆弾のため尊い生命を失われた職員の霊を慰め 永遠の平和を祈りこの碑を建てる(背面)
幟町04
幟町14
中国海運局職員慰霊碑
1970年8月6日
中区上八丁堀6番30号(合同庁舎中庭、1号館附属棟西)
中国海運局原爆犠牲者慰霊のためにこの碑を建つ(台座背面)
幟町05
幟町15
済美国民学校職員生徒慰霊碑
1970年8月6日
中区八丁堀7番11号(広島YMCA2号館、南西角)
済美学校は明治5年2月能美円乗先生により創立された開成社を前身とする 明治26年済美学校となり人格的訓育を主眼においた教育は全国に多数の英才を輩出した 昭和20年8月6日原子爆弾により校舎は壊滅し 職員生徒多数死没した 同年12月廃校となり73年の歴史を終えた 洵に懐旧の情にたえず校舎あとに記念碑を建て 済美の偉業を後世にとどめる 昭和45年8月6日 済美学校卒業生及旧職員一同(横の説明板)
 
幟町06
幟町16
縮景園原爆犠牲者慰霊碑
1988年3月19日
中区上幟町2番11号(広島県縮景園内。正門を入り、跨虹橋を渡った先の丘の辺り)
この碑は、昭和20年8月6日原子爆弾投下による被爆犠牲者の御霊のご冥福を祈るとともに、永遠なる戦争の再発防止や、核兵器の廃絶を県民こぞって提唱し世界恒久平和の確立を期するため建立したものである。 昭和63年3月19日 広島県縮景園長(背面右)
この1枚の被爆写真を手がかりに昭和62年7月31日埋葬地点を発見、64体のご遺体を発掘し、同年8月6日平和記念公園内原爆供養塔に納骨した。 写真撮影者は、元朝日新聞社カメラマン松本栄一氏、揮毫は茶道の上田宗箇流家元上田宗源氏(背面左)
幟町07
幟町17
広島女学院高等女学校職員生徒慰霊碑
1953年4月
中区上幟町11番32号(広島女学院中学・高等学校内、ゲーンス記念ホール東)
昭和20年8月6日の原爆に斃れた教職員18名生徒300余名の霊を合祀してその平安を祈る。 昭和28年4月吉日 広島女学院 これは復活なり 生命なり 我を信ずるものは 死ぬとも生きん(ヨハネ伝)(背面)
幟町08
幟町18
市立幟町国民学校職員生徒・特設警備隊慰霊碑
1981年7月
中区幟町11番(幟町公園内)
慰霊 幟町国民学校跡(正面)
中部第32037部隊 広島東部、中部第32057部隊世羅郡、部隊所属婦人挺身隊、幟町国民学校教職員児童(背面)
幟町09
幟町19
堀川地区町民慰霊碑
1957年8月6日
中区新天地1番(中央通り沿い歩道)
殺身以成仁 They sacrificed their lives to preserve their virtue complete! (Confucian Analects).
袋町01
国泰寺01
広島銀行役職員物故者慰霊碑
1968年11月
中区紙屋町一丁目3番8号(広島銀行本店屋上)
 
役職員物故者のみたまここに鎮まる その遺業をたたえ景慕敬弔の誠を捧げる 創業90周年を迎えて 昭和43年11月 頭取 井藤勲雄(背面)
袋町02
国泰寺02
NHK原爆の碑
1966年3月22日
中区大手町二丁目11番10号(NHK広島放送センタービル南)
袋町03
国泰寺03
ヒロシマの火 平和への灯
2007年8月1日
中区大手町二丁目11番10号(NHK広島放送センタービル南)
ヒロシマの火 平和への灯
袋町04
国泰寺04
平和への誓い~被爆放送局の碑~
2005年8月6日
中区大手町二丁目11番10号(NHK広島放送センタービル南)
袋町05
国泰寺05
日本発送電株式会社中国支店原爆殉職者慰霊碑
1953年4月
中区大手町三丁目14番(エネパーク大手町西、元安川河岸緑地)
慰霊碑
袋町06
国泰寺06
大手町小学校・国民学校跡地記念碑
1985年2月
中区大手町四丁目1番8号(NTTドコモ中国大手町ビル南西)
慰霊 原爆死歿教職員並に同窓生(背面) 
昭和60年2月吉日建立 教職員、同窓生一同(横面)
袋町07
国泰寺07
広島中電話局鎮魂の碑
1985年3月1日
中区袋町6番11号(NTT袋町ビル北)
昔、ここに広島中電話局があった。 昭和20年8月6日、午前8時15分、原子爆弾が投下されすさまじい爆風と熱線により、建物が壊滅状態となった。当日勤務していた職員、女子挺身隊員、動員学徒等451名のうち約半数におよぶ尊き命が失われた。 当ビル新築にあたり、旧庁舎屋上に使用されていた被爆タイルを埋め込み、当時をしのぶこととした。(横の説明板)
袋町08
国泰寺08
袋町地区原爆死没者慰霊碑
1992年8月1日
中区袋町9番(袋町公園内)
爆心の袋町にあって、総てを絶たれ、いまなおその証しさえなく眠る原爆死没者のみ霊に捧げるためこの碑を建立する 平成4年8月 袋町地区社会福祉協議会 袋町地区原爆死没者慰霊碑建立委員会 袋町地区(旧町名、猿楽町・立町・細工町・横町・鳥屋町・塩屋町・尾道町・播磨屋町・平田屋町・革屋町・研屋町・東魚屋町・袋町・新川場町・下中町・中町・国泰寺町・西魚屋町・雑魚場町・小町・紙屋町・鉄砲屋町・大手町1丁目~8丁目)(台座背面)
 
袋町09
国泰寺09
移動演劇さくら隊原爆殉難碑
1955年8月6日
中区小町1番(三井ガーデンホテル広島南東、平和大通り緑地帯)
移動演劇さくら隊原爆殉難碑の由来 広島の移動演劇さくら隊原爆殉難碑は、原爆投下から7年後の1951年(昭和26年8月)中国新聞社芸能記者の人達によって「丸山定夫・園井恵子 追慕の碑」として、白いペンキ塗りの質素な木の碑として新川場町のどぶ川のほとりに建立された。それから4年後の1955年(昭和30年)8月に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会で、碑の建設が、劇団俳優座の永田靖氏らによって、新劇人へ呼びかけられた。建設に当たっては徳川無声、八田元夫、山本安英の各氏が奔走し、1959年(昭和34年)8月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場の6劇団と「演劇人戦争犠牲者記念会」の協力によって建立された。 碑の「桜隊」の「桜」が「さくら」と仮名文字で彫られているのは、占領下のもとであったため漢字の「桜」は使用出来なかった。 2000年8月 広島市民劇場
 
袋町10
国泰寺10
殉職医師・医療従事者合同慰霊碑
1960年8月
中区小町2番(中町信号機南西、平和大通り緑地帯)
身を挺し市民救護の使命に殉じた医師看護婦の霊を祀る。昭和35年8月 被爆15周年にあたりて広島市医師会これを建つ(横の石板)
袋町11
国泰寺11
広島県立広島第一高等女学校職員生徒追憶碑
1955年8月
中区小町2番(三井ガーデンホテル広島南西、平和大通り緑地帯)
昭和20年8月6日遭難 職員校長共20名 生徒277名及同窓生(側面) 
今学び舎のこの跡に 受難の跡を弔いて み墓の前にぬかずけば 無量の思い胸にわく ああ師の君よわが友よ 鎮まり給え安らけく(背面)
袋町12
国泰寺12
広島県職業安定行政原爆殉職者鎮魂の碑
1995年8月6日
中区国泰寺町一丁目1番41号(国泰寺中学校南端歩道沿い)
昭和20年8月6日、職業安定行政職員41名が建物疎開の勤労奉仕中原爆によりこの地で殉職された。 この碑は再びこうしたことのないことを願いつつ建立したものである(右側面) 
平成7年8月6日 広島県職業安定行政経験者及び職員有志一同(左側面)
袋町13
国泰寺13
広島県立広島第一中学校職員生徒追憶の碑
1948年8月6日
中区国泰寺町一丁目2番49号(広島国泰寺高等学校内、正門入って右)
昭和20年8月6日戦災死職員生徒追憶ノ為3周年日之ヲ建ツ(背面)
袋町14
国泰寺14
広島市役所職員慰霊碑
1965年12月18日
中区国泰寺町一丁目6番34号(広島市役所本庁舎前庭)
昭和20年8月6日の原子爆弾により尊い生命を失なわれた本市公務員の霊のためにこの碑を建て永遠の平和を祈る。 昭和40年12月 広島市長 浜井信三(後ろの壁面)
袋町15
国泰寺15
広島県立広島第二高等女学校殉国学徒の碑
1952年8月6日
中区国泰寺町一丁目9番30号(荒神堂境内)
嗚呼 昭和20年8月6日学徒動員作業中原爆により教官2名生徒43名平和の礎となる(背面)
袋町16
国泰寺16
広島女子高等師範学校・同附属山中高等女学校殉国学徒の碑
1952年8月6日
中区国泰寺町一丁目9番30号(荒神堂境内)
 
嗚呼 昭和20年8月6日学徒動員作業中原爆により教官4名生徒382名平和の礎となる(背面)
竹屋01
国泰寺17
三川町町民慰霊碑(子まもり地蔵尊)
1949年秋
中区三川町8番12号(円隆寺境内墓地)
竹屋02
国泰寺18
歯科医師職員慰霊碑
1967年8月6日
中区富士見町11番9号(広島県歯科医師会館前北東)
竹屋03
国泰寺19
竹屋地区原爆慰霊碑
2008年8月
中区鶴見町8番49号(竹屋小学校内、校舎南の中庭)
原爆慰霊碑 平和の祈り 永遠にとどけ
千田01
国泰寺20
浪切不動尊(龍心寺原爆死没者慰霊の像)
1956年4月28日
中区大手町五丁目2番11号(龍心寺境内)
原爆死者之霊(台座)
千田02
国泰寺21
大手町地区町民原爆犠牲者慰霊碑
1970年8月6日
中区大手町五丁目23番(新明治橋東詰南、元安川河岸緑地)
千田03
国泰寺22
広島大学原爆死没者追悼の碑
1974年8月6日
中区東千田町一丁目1番89号(広島大学東千田キャンパス内、東千田共用施設C棟東)
昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投ぜられた。一瞬、莫大な破壊を生じ、無数の人命を奪ったのみならず、その被害は長く今日に及び、身心の傷痕なお癒ゆることがない。本学前身諸学校のうち、広島文理科大学、広島高等学校、広島工業専門学校、広島高等師範学校、同附属中学校、同附属国民学校、広島女子高等師範学校、同附属山中高等女学校、広島師範学校、同附属国民学校、広島県立医学専門学校、広島市立工業専門学校は当時市内に所在し、直接被災した。その教職員並びに学生生徒児童は学校の内外において死傷し、また後遺症により没した者多きを数える。爾来星霜30年を経て、被爆により死没せられた人々を悼む心吾人において益々ふかく、核兵器を憎み、その完全な廃絶と、世界恒久の平和を願うこと切なるものがある。ここに有志相はかり、建碑して追悼の意を表するとともに、広島大学が人類平和の確立に敢然寄与すべきふかい学問的責務を負う所以を永久に銘記する。 昭和49年8月6日 広島大学学長 飯島宗一撰 元広島大学教授 井上政雄書
千田04
国泰寺23
広島文理科大学・広島高等師範学校原爆死没者遺骨埋葬の地碑
1972年12月25日
中区東千田町一丁目1番89号(広島大学東千田キャンパス内、東千田共用施設C棟南)
広島文理科大学・広島高等師範学校原爆死歿者遺骨埋葬の地
千田05
国泰寺24
千田国民学校原爆犠牲教師と学童追憶の碑
1976年8月
中区東千田町二丁目1番34号(千田小学校内、正門の車回し横の日本庭園内)
 
原爆犠牲教師と学童追憶之碑 1976.8 千田国民学校遺族会
千田06
国泰寺25
広島電鉄株式会社慰霊碑
1977年7月
中区東千田町二丁目9番29号(広島電鉄株式会社千田車庫内、引き込み線のポイント前)
この碑は会社創立以来の殉職者と原爆により死没された当社役職員・家政女学校職員生徒・女子挺身隊員・動員学徒の方々のご冥福を祈念し建立したものである(背面)
千田07
国泰寺26
千田町一丁目町民慰霊碑(ふりかえりの塔)
1977年8月6日
中区千田町一丁目3番(鷹野橋交差点ロータリー内)
ふりかえりの塔 ピカドーン くずれた家々は たき火のように燃え拡がり はりの下敷きとなって あちらこちらで 助けを求める悲痛な叫び 迫り来る火の海の前に 人の力は あせれど弱い 「逃げて 早く逃げて…」と叫ぶいとしい人の声もとだえた今 後髪を引かれ 振り返ってはころび 火の粉を浴びながら また 振り返る 偲い残り あの時 あの日を 再び繰り返してはならない(台座)
 
千田08
国泰寺27
広島赤十字病院慰霊碑
1959年11月
中区千田町二丁目5番64号(日本赤十字社広島県支部前庭)
死はこの市に住む人々をもその救護を使命とする人々をも同時に襲った。かくして残虐な無差別兵器はこの地点において赤十字が創設した博愛の施設にも打撃を与えたのであった。 しかしこの事件は人間の良心をを呼びさました。 その後人類は一体となって戦争を放棄し正義と平和の支配する友情の世界を生み出さねばならないことを知った。 赤十字はこの福祉の業にその熱情と誠意とを傾けるであろう。 赤十字国際委員会々長 レオポルド・ポアシエ(横の石碑)
 
千田09
国泰寺28
修道中学校職員生徒慰霊碑
1946年8月
中区南千田西町8番1号(修道中学・高等学校内、本館北)
慰霊
千田10
国泰寺29
「歴史に生きる」碑
1993年10月16日
中区南千田西町8番1号(修道中学・高等学校内、本館北)
歴史に生きる 平成5年8月6日 東京芸術大学長 平山郁夫書(正面)
被爆建物 旧広島陸軍兵器支廠の外壁煉瓦 旧広島陸軍兵器支廠は、昭和19年9月から昭和20年8月15日まで旧制修道中学校生徒が学徒勤労令による動員で作業に従事した場所である。昭和20年8月6日 3年生を中心とした多数の生徒がここで被爆した。 このたび旧広島陸軍兵器支廠倉庫の最後の1棟(現在広島市南区霞1丁目広島大学医学部構内)が取り壊されるにあたり、当時の動員生徒有志の醵金によって、その外壁煉瓦を本校で保存するに至った。 (写真は旧広島陸軍兵器支廠倉庫 煉瓦はその一部) 平成5年(1993年)10月16日 修道中学校 修道高等学校(正面の銅板)
旧広島市庁舎被爆石(台座正面)
贈 被爆当時修道中学校3年生有志(背面)
本川01
国泰寺30
左官町周辺縁故者原爆精霊供養塔
1951年8月6日
中区本川町一丁目2番9号(善応寺境内)
為7回忌追善菩提
本川02
国泰寺31
本川小学校原爆慰霊碑
1995年11月3日
中区本川町一丁目5番39号(本川小学校内、本川小学校平和資料館西)
あまねくとどけ 平和の祈り(正面) 
被爆50周年記念として 本川地区原爆慰霊碑建立委員会之を建つ 平成7年11月3日(背面)
碑に寄せて 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分相生橋上空五百数十米にて爆発した1発の原子爆弾は、瞬時に全市を壊滅させた。 爆心に最も近いこの学校では児童教職員四百十余人全員爆死し、数千人もの地区民も熱線爆風の直撃を受け惨憺たる有様であった。廃墟となったこの学校は臨時救護所に当てられたが、焼けただれ水を求めてさまよう人々を手当する術も無く、校庭はたちまち死骸の山となり已むなくこの地で荼毘に付された。当時を偲べば追悼の念を禁じ得ない。 この事実を後世に伝え核兵器の廃絶と永久の平和を希って、地区と学校が一体となりこの平和資料館の傍らに慰霊の碑を建立する。 平成7年11月3日 本川地区原爆慰霊碑建立委員会(横の石碑)
本川03
国泰寺32
本川学区町民慰霊碑
1957年8月6日
中区本川町三丁目5番(空鞘橋西詰南、本川河岸緑地)
為原爆死没者(背面)
この地は、かつて空鞘町防空壕があり、昭和20年8月6日原爆投下された際、本川地区一帯の被爆死亡者数千の遺体を本川小学校に集め荼毘に付し、その遺骨を埋葬した場所であります。
その後遺骨は平和公園内の供養塔に移されましたが、永遠にこの聖地を記念し、その霊を慰めるために、地区有志一同相寄り昭和32年8月6日この慰霊碑を建立したのであります。平成6年4月 本川地区町民有志・本川町二丁目三丁目町内会・十日市町二丁目1区2区3区町内会(横の説明板)
本川04
国泰寺33
広島市立中学校職員生徒慰霊碑
1948年8月6日
中区小網町8番(緑大橋東詰北、天満川河岸緑地)
広島市立中学校は昭和17年天満小学校の一部を仮校舎として創立され、翌年中広町の新校舎に移転する。戦局の激化に伴い、工場に、農村にあるいは建物疎開作業等に動員され、厳しく鍛えぬかれた生徒は市中精神に徹し、健気に銃後を護る。 昭和20年8月6日原爆による広島壊滅の日、小網町で建物疎開作業中の全員及び登校していた者やその他370余名の職員生徒が劫火の犠牲となる。 このたび三光寺にあった碑を多くの生徒が斃れたこの地に移し、その霊を慰めるとともに、広島市立中学校の名を茲に留めんとするものである。 昭和50年8月6日 広島市立中学校遺族会・広島市立中学校同窓会
 
本川05
国泰寺34
西地方・西新町町民慰霊碑
1947年8月15日
中区土橋町2番4号(浄国寺境内墓地)
本川06
国泰寺35
広島県防空機動隊員慰霊碑
1947年8月15日
中区土橋町2番4号(浄国寺境内墓地)
(かつては、「防空機動隊員慰霊碑」と記されていたが、現在判読不能)
中島01
吉島01
日本生命保険職員殉職碑
1949年
中区中島町3番25号(ニッセイ平和公園ビル北西角)
昭和20年8月6日殉職
中島02
吉島02
 
県立広島工業学校職員生徒慰霊碑
1987年3月
中区中島町10番(藤和平和公園前コープ西、本川河岸緑地)
原爆遭難の碑
中島03
吉島03
 
広島県職員原爆犠牲者慰霊碑
1958年8月6日
中区加古町17番(アステールプラザ南西、本川河岸緑地)
昭和20年8月6日投下された原子爆弾は広島県庁および出先機関職員のうち800有余の生命を一挙に奪い去った 祖国のために一身の安危を顧みずひたすらに公務に精励していた人々のこの尊い犠牲はまことに痛惜きわまりない この附近は当時の殉難者が最も多く眠るところである このゆかりの地を選んで碑を建て身をもって平和の礎となった人々の霊をまつる 昭和33年8月6日 広島県知事 大原博夫(背面)
 
中島04
吉島04
 
広島刑務所鎮魂の碑
1995年12月15日
中区吉島町13番の114(広島刑務所内)
鎮魂 法務大臣 宮沢弘
中島05
吉島05
原爆犠牲新聞労働者の碑(不戦の碑)
1985年8月6日
中区加古町3番(広島市文化交流会館北西、本川河岸緑地)
不戦
吉島東01
吉島06
原爆死没ろう者を偲ぶ碑
2003年8月3日
中区吉島東二丁目10番33号(広島県立広島南特別支援学校内、グラウンド南東)
 
鎮魂(正面)
平成15年(2003)8月 広島県立広島ろう学校同窓会建之(背面)
吉島東02
吉島06
国有林野関係職員原爆慰霊碑
1976年8月6日
中区吉島東三丁目2番51号(広島森林管理署内、庁舎西)
原爆落つ ああここに 悲しき犠牲者あり 冥福を祈りて 浄財を集め この碑を立つ(背面)
広瀬01
(西区)
中広01
中国配電職員弔魂塔
1948年8月6日
中区寺町1番19号(本願寺広島別院境内、正門入って右)
昭和20年8月6日ノ戦災ニ因リ本社社員ノ前後非命ニ斃レシ者278名是レ皆国家再造ノ犠牲本社進展ノ礎石ト謂フ可シ茲ニ3周年ニ当リ僚旧均シク哀ヲ新ニシ慼ヲ増ス仍テ此ノ塔ヲ建テテ聊々追弔ノ情ヲ表ハシ亦以テ永ク其ノ幽魂ヲ慰メント欲ス。昭和23年8月6日 中国配電株式会社取締役社長 島田兵蔵撰並書(背面)
広瀬02
(西区)
中広02
特設警備隊広島西部第二部隊慰霊碑
1982年5月16日
中区広瀬北町9番(中広大橋東詰北、天満川河岸緑地)
特設警備隊 広島西部第二部隊原爆戦死合祀者名 昭和20年8月6日(背面)
広瀬03
(西区)
中広03
広瀬学区表忠碑
1956年6月24日
中区広瀬町1番19号(広瀬神社境内)
大東亜戦争に於ける 戦死者 並 原爆死没者 847柱合祀す 昭和31年6月24日 再建立 広瀬学区郷友会 広瀬地区社会福祉協議会
広瀬04
(西区)
中広04
広瀬学区原爆死没者慰霊碑
2004年8月3日
中区広瀬町2番8号(広瀬小学校内、南校舎南)
昭和20年8月6日午前8時15分人類史上初めての原子爆弾が 広島に投下された 爆心地に近い当学区内も 熱線爆風の直撃で一瞬の内に ほとんどの家屋が倒壊し延焼した 下敷き状態から救出を求めながら焼け死んだ人も多く学区内は地獄と化し 推定死亡者は 五千人を越えた(原爆被爆者動態調査誌参照) 広瀬国民学校児童の大半は縁故疎開や 集団疎開をしていたが当日登校していた教師7人児童37人 行方不明児童100人の尊い命が失われ犠牲者となった ここに 原爆で亡くなられた多くの方々を 慰霊するとともに 被爆の事実を風化させぬ為 また 不戦の誓いと世界恒久平和の祈念の場として住民の意志を結集し慰霊碑を建立するものである 平成16年8月3日 広瀬学区原爆死没者慰霊碑建立委員会 被爆当時学校区町名 寺町 広瀬北町一丁目 二丁目 三丁目 広瀬元町 錦町 西九軒町 横堀町 北榎町 新市町 西引御堂町 中広町 中広本町 中広北町 中広町一丁目 上天満北町(背面)
 
神崎01
江波01
市立第二高等小学校職員生徒慰霊碑
1977年7月
中区河原町1番(西平和大橋西詰、平和大通り緑地帯)
慰霊碑 広島市立第二高等小学校
神崎02
江波02
神崎学区原爆慰霊碑
1995年8月3日
中区河原町15番(河原町公園内)
昭和20年8月6日、人類史上はじめて投下された原子爆弾により、神崎学区も未曾有の被害を受けた。 本年被爆50周年を迎えるに当たり、原爆で亡くなられた多くの方々を慰霊するとともに世界の恒久平和を祈念して、地域住民の総意によりここに慰霊碑を建立するものである。 平成7年8月3日 神崎学区原爆慰霊碑建立委員会
神崎03
江波03
小網町原爆慰霊碑(女子挺身隊・義勇隊・動員学徒慰霊碑)
1976年8月
中区舟入町3番(平和大通り緑地帯、広島三菱自動車販売(株)中央店前)
原爆慰霊碑
神崎04
江波04
原爆地蔵尊
1960年
中区舟入幸町14番(舟入公園内)
この地蔵尊は、沢山の被爆者の方々が、この付近で亡くなられその冥福を祈念してこの地に建立されました。(以下略)(説明板)
舟入01
江波05
県立広島商業学校職員生徒慰霊碑
1961年9月30日
中区舟入南六丁目7番11号(広島県立広島商業高等学校内、正門入って右)
祖国の柱に捧ぐ 第11回生 大木惇夫 戦ひのいけにゑとして散りし花 わかき友らは今も生く この門に生く 仰ぎみん 御霊やすかれ 合掌禮拝
江波01
江波06
江波地区戦死者戦病死者並原爆死者之霊・塔婆
不詳
中区江波東二丁目6番13号(丸子山不動院境内)
江波地区戦死者戦病死者並原爆死者之霊
江波02
江波07
母子愛の碑
1995年8月7日
中区江波二本松二丁目12番(江波山公園内展望広場)
碑に寄せて 昭和20年8月6日午前8時15分。 1発の原子爆弾は相生橋上空5百数十米において炸裂した。一瞬にして街は阿鼻叫喚の巷と化した。 わが江波町の人的物的被害は中心部に比して軽かったが、時を経ずして、多くの負傷者が見るも無残な姿で殺到し、その数は1万人を突破した。 一方、炎熱に耐えかねて本川に入水した無数の死傷者が折りからの下げ潮にのって江波町の波打ち際に漂着して来た。 その日、江波町は夏祭りであったが暗転して惨劇の街と化していった。 肉親探し、救援、看護、更には火葬等の諸活動は町内会、警防団、婦人会等、役割を分担しながら秋までも続いた。 あれから時は流れて半世紀、今日に至る江波町有縁の犠牲者は推定1万数千名にも及んでいる。 襟を正して、これらすべての犠牲者の魂安かれと祈ることは現代に生きる者の責務であろう。更には人類の滅亡につながる核兵器の廃絶を願い、不戦の決意も新たに、ひいては世界恒久平和の実現を誠実に希求するその証として、心ある人々の浄財をもってこの碑を建立するに至った。 碑面は「世界平和」を礎に、不変の真理である「おやこの愛」と「生命の尊さ」を訴えた。作者は中国広州美術学院教授曹崇恩先生であり、日中友好の懸け橋ともなればとの想いも含まれている。 願わくばこの心を子々孫々に至るまで受け継ぎ護り給わんことを。 平成7年8月7日 除幕 江波地区社会福祉協議会
江波03
江波08
江波地区戦没者慰霊碑
1983年5月
中区江波南一丁目11番12号(海宝寺境内、本堂前)
戦没者慰霊碑

原爆関連の慰霊碑等の概要(東区内:8基)

地区
小学校区
中学校区
名称
建立年月日
所在地
碑文、追悼歌(注)
戸坂01
戸坂01
広島市立高等女学校職員生徒原爆追悼碑
1951年8月6日
東区戸坂千足一丁目12番27号(持明院境内、正門入って左)
教え子を水槽に入れ自らは 掩ひとなりて逝きし師のあり。 万歳の声をいまわに倒れゆきし 清き乙女の赤き血の色。 ゆきゆきてかえらぬ人の面影を しのびて夜半の古枯をきく。 昭和26年8月6日 宮川雅臣(背面)
この追悼碑は、昭和20年8月6日学徒動員中原爆によって散華した広島市立高等女学校職員生徒679柱のみ霊を悼み、臨終の地近くの広島市木挽町持明院に建立、41年12月当地に移されたもので、元安河畔の市女慰霊碑とともに、本会寄進の持明院ご本尊聖観音像の大慈大悲のみ光により、永く安らかに涅槃の境に鎮まり給えと、遺族の悲願がこめられている。 昭和52年8月 33回忌 広島市女原爆遺族会(横の石碑)
 
戸坂02
戸坂02
戸坂供養塔
1945年10月
東区戸坂桜上町20番(正池平墓地内入口付近)
昭和20年8月6日原子爆弾が投下され広島市は壊滅し多くの被爆者が陸軍病院戸坂分院(戸坂小学校等)に避難し死亡された方々の遺骨を仮埋葬しその標識としてこの供養塔が建立された(横の石碑の正面)
供養塔は昭和20年10月に建てられたものであるが戸坂村が広島市に合併して40周年の節目に当り説明文碑を建立して後世に残す 平成7年4月10日 戸坂連合社会福祉協議会(横の石碑の側面)
牛田01
牛田01
牛田供養塔
1950年
東区牛田中二丁目3番(牛田公園内)
尾長01
二葉01
二葉山平和塔(仏舎利塔)
1966年8月5日
東区光が丘1番
この広島市二葉山平和塔は、人類の幸福と戦争のない世界の恒久平和を念願し、史上最初の原子爆弾の犠牲者二十数万の冥福を祈り、平和の聖者釈尊の御真骨を奉祀して建立されたものであります。 昭和29年4月、日本山妙法寺主藤井日達聖人により地鎮祭が行われましたが、その後、12年を経て昭和40年、地元の開拓団の方々が、各自の土地の一部を売却して建設資金をつくり、日本山妙法寺や有志の協力により完成し、昭和41年8月5日に落慶式と広島市への寄贈式が行われました。 塔内にはインドのネール首相より贈られた仏舎利が一粒、モンゴル仏教徒やセイロン国(現スリランカ国)より贈られた各一粒も併せて奉安されています。正面の仏像は、昭和41年5月、セイロン国から贈られたものです。また県市民の平和の願いをこめた祈念石数万個も収納されています。 なお、標高139米の山頂のこの地は、半地下式の大型高射砲四門がすえられていたところです。(案内板)
尾長02
二葉02
尾長慰霊碑
1968年12月
東区曙二丁目4番(尾長公園内)
慰霊 広島市長 山田節男
尾長03
二葉03
松本商業学校職員生徒慰霊碑
1966年7月
東区尾長西二丁目12番1号(瀬戸内高等学校内、グラウンド西)
慰霊碑
(中区)
白島01
(中区)
幟町01
二葉の里原爆慰霊碑
1966年8月5日
東区二葉の里二丁目1番18号(東照宮参道、石段手前)
昭和20年8月6日の原爆により罹災者境内に溢れ救護所設けらる 偶境内に湧井在り この清水を飲みて幽明異にする者多し 寔に哀愍の情に堪えず 茲に慰霊碑を改建して永く哀史を伝えんとす。 昭和41年8月5日 東照宮宮司久保田幸重誌(背面)
 
(中区)
白島02
(中区)
幟町02
原爆65周年追憶碑
2010年8月6日
東区二葉の里二丁目1番18号(東照宮参道、石段手前)
コハ今後生キノビテコノ有様ヲ ツタヘヨト天ノ命ナランカ 原民喜 平成22年8月6日 広島市長 秋葉忠利書

原爆関連の慰霊碑等の概要(南区内:25基)

地区
小学校区
中学校区
名称
建立年月日
所在地
碑文、追悼歌(注)
荒神町01
段原01
松原地区(荒神学区)町民慰霊碑
1968年8月5日
南区松原町12番(福屋広島駅前店南、猿猴川河岸緑地)
慰霊
段原01
段原02
的場地区町民慰霊碑
1957年5月19日
南区的場町一丁目10番(荒神橋西詰北、猿猴川河岸緑地)
原爆慰霊碑
段原02
段原03
妙詠寺原爆死歿者供養塔
1994年7月24日
南区松川町3番1号(妙詠寺境内墓地)
原爆死歿者供養塔(正面)
被爆五十回忌法要之砌 建立 平成6(1994)年7月24日 法流山妙詠寺 開眼主顕本法華宗管長 総本山妙法寺第303世 協賛 顕本法華宗 總本山 妙満寺(側面)
 
段原03
段原04
広島郵便局原爆殉職者の碑
1953年8月6日
南区比治山町7番10号(多聞院境内、正門入って右)
広島郵便局原爆殉職者之碑
段原04
段原05
殉職警察職員慰霊碑
1949年9月23日
南区比治山公園3番(ひかり茶屋手前)
此の碑はもと水主町旧武徳殿前に存し、昭和20年8月6日の原子爆弾に破壊されたが、英魂を永えに鎮めその芳名を千載に伝うべく、県下警察職員の総意によって此の地を選んで再建する。時はこれ昭和24年秋分の日である(背面)
段原05
段原06
消防職員殉職碑
1950年11月
南区比治山公園3番(ひかり茶屋手前)
この碑は元水主町旧武徳殿前に存し原爆に被災倒壊せるを此の地に移築再建したものである。昭和25年11月 広島県消防殉職碑建設委員会(背面)
段原06
段原07
船舶通信隊補充隊特別幹部候補生鎮魂の碑
1975年8月
南区比治山公園6番(陸軍墓地内)
友よ安らかにねむれ 兄等修羅の巷に逝きて30年 祖国存亡の秋に 少年学徒の身をもって馳せ参じ 人類史上例をみない被爆によってこの地にねむる 瀕死の身をいとわず友の安否を訪ねし兄等混迷のままに痛恨の思いをのこして散華せし友よ 兄等ののこした痛哭の思いは 生きのびた吾等の心に今なおうずく ここに同期の友等相集い 兄等在りし日の至純を追慕しいまわの声を継承してとわの平和を誓う 安らかにねむれ 若き友よ(正面)
由来記 船舶特別幹部候補生は 第2次大戦の末期 風雲急を告げる戦局打開のため志願応募した学徒少年兵で 若潮部隊と称されていた。 主力は海上挺進戦隊として小型舟艇に爆雷を搭載し 先輩は比島及び沖縄に出撃千有余名の者が散華していった 船舶通信隊補充隊特別幹部候補生隊は小豆島での基礎教育後広島に転属 ㋴と称した輸送船舶の通信要員として 千田町国民学校を宿舎にして教育を受けていた8月6日 朝の点呼中校庭で被爆 帰営中の三期生を含め 全員が重軽傷を負い特幹隊は壊滅の状態に陥ちた 各施設に収容されたものの 終戦の混乱で治療もままならず 旬日のうちに幾十名の者が散華していった。 昭和45年以来生存者有志相集い これら友の惨死を風化させるにしのびず 相はかりて還らざる友の冥福を祈り あわせていまわの声を継承し とわの平和を誓って鎮魂の碑を建立するものである。 昭和57年8月吉日 元船舶通信隊補充隊特別幹部候補生隊・若潮千通会有志一同建之(背面)
段原07
段原08
中国軍管区司令部殉職の碑
1965年
南区比治山公園6番(陸軍墓地内)
昭和20年8月6日殉職 中国軍管区司令部故陸軍少将倉繁三蔵外102柱追悼之碑
段原08
段原09
段原地区町民慰霊碑
1959年8月6日
南区段原三丁目1番(大正橋西詰南、猿猴川河岸緑地)
原爆慰霊碑
比治山01
段原10
広島市立第一高等小学校・第一国民学校慰霊碑
1990年7月31日
南区霞一丁目3番30号(段原中学校内、正門入って左)
被爆教師と生徒の碑 一高会原爆慰霊碑建設委員会 旧広島市立第一高等小学校 旧広島市立第一国民学校
皆実01
翠町01
仏立寺原爆供養塔
1967年5月
南区比治山本町4番15号(仏立寺境内)
原爆供養塔
皆実02
翠町02
電電搬送通信部関係職員慰霊碑
1950年1月30日
南区比治山本町11番20号(NTT DATA比治山ビル前庭)
廣島や 一灯もなく 天の川(正面)
この碑は、原爆直後に広島搬送電気通信工事局員52名の慰霊の為に、当時の局長中井秀基氏の自筆の句を刻んだもので、原子爆弾で亡くなられた友に贈る思慕の碑であり平和への祈りです。 「夜が来ると、暗い屋上に身を横たえては、仏の数を数えるようになった。-その仏の行方を追うかのように- 星が小さくまたたいて数が増えていく空の下で、それから、銀の星が嬉しいものの一つとなった。」多くの人々の平和のために、この碑の祈りを永く語りつづけたい。 昭和62年8月 NTT電信搬送関係者有志 NTT中国ネットワーク支社(台座)
皆実03
翠町03
進徳高等女学校職員生徒慰霊碑
1959年8月3日
南区皆実町一丁目1番58号(進徳女子高等学校内、正門入って右の講堂の南)
波羅密多
皆実04
翠町04
市立皆実小学校職員児童同窓生慰霊碑
1981年12月1日
南区皆実町一丁目15番32号(皆実小学校内、正門入って右)
いしぶみ 昭和56年12月1日建立(正面)
同窓生死没者並びに原爆死没者の先生・児童のみたまを弔う。本校創立60周年記念事業の一つとして同窓会が建立する(背面)
皆実05
翠町05
広島高等師範学校附属中学校原爆死没者・戦没者慰霊碑
2005年4月17日
南区翠一丁目1番1号(広島大学附属小学校・中学校・高等学校内、正門入って右)
母校の創立百周年にあたり、戦争とりわけ原子爆弾に依ってあたら前途有為の人生を奪われた諸霊に対し、深甚なる弔意を捧げ碑を建立する 平成17年4月17日広島高等師範学校附属中学校 広島大学附属中、高等学校同窓会 アカシア会 原爆死没教職員 岡本恒治外7名 原爆死没元教職員 高橋悦郎外6名 原爆死没生徒 加藤恭三外18名 原爆死没アカシア会員 正岡一薫外66名 戦没元教官 寺田角一外2名 戦没アカシア会員 本村秀夫外121名(背面)
 
翠町01
翠町06
市立第三国民学校慰霊塔
1946年8月1日
南区翠四丁目15番1号(翠町中学校内、テニスコート右)
為昭和20年8月6日之戦災斃職員生徒児童210名。依遺族之寄附建之。昭和21年8月1日建之。
大河01
翠町07
比治山高等女学校職員生徒慰霊碑
1961年11月
南区西霞町5番16号(比治山女子中学・高等学校内、B館横の池の南)
ペンを預け たゞ一すじに 捧げたる 若きみ魂を 永久に偲ばむ(正面)
昭和20年8月6日散華 動員学徒職員75名 於中国軍管区司令部其他 昭和36年11月建之 比治山学園(背面)
大河02
翠町08
県立広島工業学校職員生徒慰霊碑
1962年5月
南区出汐二丁目4番75号(県立広島工業高等学校内、正門入って左)
雨の日も風吹く夜半も 鎮もりて み魂よまもれ わが学び舎を
大河03
翠町09
大河地区町民慰霊碑
1981年8月6日
南区北大河町23番8号(大教寺境内、鐘楼隣)
慰霊
楠那01
楠那01
日宇那原爆慰霊碑
1952年
南区日宇那町13番6号(光明寺境内)
原爆慰霊碑(正面)
昭和27年建立(背面)
宇品東01
宇品01
金輪島原爆死没者慰霊碑
1998年8月2日
南区宇品町金輪島170番地の1(金輪島トンネル出入口付近)
御霊安かれ 1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、街は一瞬のうちに破壊し、熱線に焼かれて跡形もなくなった。市民は熱線と放射能で即死、又は全身に火傷を負って逃げまどった。そのうち約500人位が金輪島に運ばれ、暁部隊の方などに助けられ、看護を受けた。負傷者は血だらけで、手をにぎると皮がつるりとむげ、水をくださいと叫びながら、次々に恐怖と苦悶の中で息絶えたという。同年8月15日、ついに終戦して戦火はやんだ。今日、広島は平和都市として復興し、我々は平和の恩恵を受けているが、この平和は50余年前不幸にして戦火の中に亡くなられた方々の犠牲の上に築かれたものである。 この碑を建てることにより、金輪島で息絶えられた方々の御霊を慰め、共々に平和を守る気持ちを新たにしたいと思う。(正面)
平成10年8月2日建之 金輪島原爆慰霊碑建立委員会(背面)
 
宇品01
宇品02
宇品地区町民慰霊碑
1966年8月
南区宇品海岸一丁目2番22号(コスタ宇品南)
(1)原爆犠牲者慰霊之像(正面)
 人類の破滅の危機を防ぎしぞ 霊安かれとここに祈羅む 酌熱の地獄のうめき 許せねぞ 平和の日々を送るよろこ飛。 弥陀のもとあなたも君も我も行く あゝ美しきなむあみだぶつ 見ず聞かず何んにも云えず知りもせず ただひたすらに弥陀の御許え。 私の本日あるも父母乃恩 山より高く海より深し。 1966年8月(側面・背面)
(2)原爆犠牲者慰霊(正面)
 永遠の平和祈念願 永遠の原水爆禁止(台座)
 
似島01
似島01
似島慰霊碑
1972年11月
南区似島町(似島中学校横)
昭和20年8月6日 広島市は人類最初の原子爆弾によって 一瞬のうちに20数万人の死傷者を出した 負傷者は各所に避難し ここ似島にも1万人余におよぶ人々が収容され 応急看護の甲斐もなく死亡者が続出し 混乱のなかとはいえ一部は仮埋葬のままでこの地に眠り悲しくも20有6年の歳月が過ぎた 昭和46年11月 はからずもこの地から遺骨が発見され推定517柱を発掘し 原爆供養塔に合祀した ここに1周年を迎え 諸霊の冥福を祈り平和への誓いを新たして この碑を建立する。 昭和47年11月 広島市長山田節男(背面)
 
似島02
似島02
旧陸軍運輸部馬匹検疫所焼却炉の遺構碑
1991年2月
南区似島町(広島市似島臨海少年自然の家東)
旧陸軍運輸部馬匹検疫所焼却炉 この遺構は、平成2年(1990年)9月、ここから約600m南にある似島住宅用地内で発掘された旧陸軍運輸部馬匹検疫所(軍馬の検疫・消毒を行う施設)の焼却炉の一部を移設したものです。 昭和20年8月6日、広島市は人類最初の原子爆弾によって一瞬のうちに壊滅し、多くの死傷者を出しました。この年の12月末までに約14万人の人が死亡したと言われています。 ここ似島にも、約1万人の負傷した原爆被爆者が収容されましたが、応急看護のかいもなく死亡者が続出し、その遺体がこの焼却炉においても火葬されたものです。 ここに、原爆による被害の悲惨さを後世に伝えるとともに、恒久平和実現への誓いを新たにして、この遺構を保存します。 平成3年(1991年)2月 広島市
似島03
似島03
原爆被爆者診療の地の碑
1978年5月3日
南区似島町(広島平和養老館前)
原爆被爆者診療の地(似島臨時野戦病院) 昇天の霊よ永久に安らかなれ 旧暁6165部隊は昭和16年7月広島にて編成以来病院船に乗組み主に南方方面の傷病兵を輸送診療に従事していたが最後にこの地に於て野戦病院を開設し1万人に及ぶ原爆被爆者を診療看護して復員する 旧暁6165部隊(病院船衛生53班) 西村幸之助外生存者 昭和53年5月3日建立

原爆関連の慰霊碑等の概要(西区内:13基)

地区
小学校区
中学校区
名称
建立年月日
所在地
碑文、追悼歌(注)
大芝01
中広01
大芝学区町民慰霊碑
1977年8月6日
西区大芝公園2番(大芝公園内)
原爆死没者之碑 原爆死没者の33回忌に当り 御霊を慰め御冥福を永遠にお祈りし その遺族と被爆者に寄せられた各方面からの御厚意と御尽力に感謝し あの悲惨な原爆投下を忘れる事なく 世界平和を祈念するためこれを建立す(背面)
三篠01
中広02
広島県防空機動隊戦病没者慰霊碑
1971年11月
西区三滝山411番地(三瀧寺境内)
慰霊碑
三篠02
中広03
中広二丁目地区町民慰霊碑
1977年8月6日
西区三滝山411番地(三瀧寺境内)
原爆33回忌追善菩提也
三篠03
中広04
安佐郡川内村原爆精霊供養塔
1951年5月
西区三滝本町一丁目(三滝墓苑)
原爆精霊供養塔
観音01
観音01
福島地区町民慰霊碑
1977年7月25日
西区福島町二丁目2番(福島生協内科クリニック南東、平和大通り緑地帯)
天に抱くがごとく両手をさしのべし 死体のなかにまだ生きるあり 深川宗俊
観音02
観音02
観音東地区原爆犠牲者慰霊碑
1961年8月19日
西区東観音町31番(観音橋公園内、観船橋西詰北)
原爆犠牲者慰霊碑
観音03
観音03
観音東地区町民慰霊碑
1965年8月6日
西区東観音町31番(観音橋公園内、観船橋西詰北)
原爆慰霊碑
観音04
観音04
殉国国民義勇隊慰霊碑(観音西地区町民慰霊碑)
1971年8月6日
西区西観音町2番(西観音町交差点南西、平和大通り緑地帯)
殉国国民義勇隊は建物疎開に出動し被爆された ここに犠牲となられた多数隊員の霊を慰める。 昭和46年8月6日 広島市長 山田節男書(側面、背面) 
南観音01
観音05
山陽中学校職員生徒追悼碑
1957年8月6日
西区観音新町四丁目12番5号(山陽高等学校内、2号館と3号館の間)
碑に誌す 昭和20年8月 原爆による殉職者学校長外職員17名 犠牲者生徒486名いまここに集いて安らかに眠る その追憶 新たに尽きるときなし さわれ 歳月流れて13年 校運益々隆昌 先猷に応え 正に創立50周年の盛儀を迎う 往昔を離れ 我等と共に 平和の学園を護り給うしるしとて 茲に学園関係者相計りこの碑を立て 篤く供養を献ぐ。 昭和32年8月6日 学校法人石田学園 山陽中・高等学校(背面)
 
己斐01
己斐01
被爆者の慰霊碑
2010年7月31日
西区己斐上二丁目1番1号(己斐小学校内、グラウンド南東)
祈り 原爆の 閃光にやかれ 己斐の地に逃れてきて 誰にも看取られず 荼毘にふされた人々の 無念の思いを 決して忘れません(台座)
庚午01
庚午01
庚午・高須地区町民原爆慰霊碑
1959年12月
西区庚午北二丁目14番(庚午第一公園内)
原爆慰霊碑
原爆慰霊碑の由来 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)8月6日、突如人類初の原子爆弾が広島市上空で炸裂、一瞬のうちに十数万人の命を奪い去ると同時に多くの負傷者が出ました。 避難する途中この地で力尽き亡くなられた被災者は、地元高須庚午北町住民により荼毘に付され、ここに埋葬されました。 1948年(昭和23)遺骨の発掘が行なわれ、同年8月6日192柱が平和公園内の原爆供養塔へ納骨されました。 1959年(昭和34)恒久平和の願いを託して、書家 堀川岳陽先生揮毫による慰霊碑が高須、庚午北町民の浄財により建立されました。 建立50周年、慰霊碑改修工事にあたり碑の由来を記すとともに、往時を偲び改めてあまたの原爆犠牲者に哀悼の意を表します。 2010年(平成22)8月5日 高須町内会 庚午北町内会(説明板)
草津01
庚午02
護法の碑
1963年11月23日
西区草津本町15番14号(教専寺境内)
昭和20年8月6日の朝わが教専寺総代世話係12名の方が、本尊御宮殿及び須彌壇の御迎えに、当時の市内天神町教念寺へ出向かれ、爆心地より620米の現地で、原爆によって一瞬の中に全員殉死されたのである。 ここに、親鸞聖人直筆の教行信證阪東本より護法の文字を頂き、護法之碑を建立し12名の功績を讃えると共に、開基より400数年にわたる総代世話係の御苦労に謝意を表すものである。 昭和38年11月23日 第16世住職 故選一法(背面)
 
草津02
庚午03
草津南町国民義勇隊追悼碑
1981年8月2日
西区草津南一丁目16番(西部埋立第八公園内)
碑文 昭和20年8月6日午前8月15分広島市上空に投下された一発の原子爆弾により市内は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵と化し 無残に崩壊した瓦礫の焦土の中を蜿々と死の行列が続いた。 この日 軍の至上命令にもとづく広島市長の指令により出動した か弱い女子100名を含む草津南町国民義勇隊は市内小網町附近建物疎開作業任務中被爆し全員傷つき焼けただれ悲惨きわまる苦悶の果て次々と斃れていった。 私ども遺族は痛恨のうちに逝った肉身の無念を想いこのむごたらしい戦禍の再び繰り返すことのない平和への祈りをこめて157名の尊い犠牲を永久に伝へ残すべく記念の碑を建立し ここに追悼の意を捧げます。 昭和56年8月2日 草津南町国民義勇隊遺族一同。 撰文遺族代表 小西ノブ子(横の石碑)
 

原爆関連の慰霊碑等の概要(安佐南区内:13基)

地区
小学校区
中学校区
名称
建立年月日
所在地
碑文、追悼歌(注)
梅林01
城山北01
佐東町八木地区戦没者慰霊碑
1977年5月
安佐南区八木三丁目26番16号(光廣神社境内)
日清及日露戦争5名、支那事変21名、大東亜戦争53名、軍属・義勇隊・学徒動員27名、原爆犠牲者40名(背面)
昭和8(1933)年御神殿造営の際發掘された由緒ある石を碑として御霊を合祀して永久の冥福を祈る。 昭和52(1977)年5月吉日 八木地区有志建立(台座)
梅林02
城山北02
緑井慰霊碑
1984年1月29日
安佐南区緑井町権現山中腹(毘沙門天堂 多宝塔1階)
慰霊 荒木武書
川内01
城南01
川内村戦没者戦災死者供養塔
1953年12月6日
安佐南区川内五丁目40番1号(川内小学校内、正門入って左)
川内村戦没者戦災死者供養塔
緑井01
城南02
緑井地区戦没者慰霊碑
1959年5月
安佐南区緑井四丁目34番17号(専蔵坊山門前)
緑井地區戦歿者慰霊碑
安東01
安佐01
安忠魂碑
1961年5月20日
安佐南区相田二丁目4番(相田集会所前)
忠魂碑
中筋01
東原01
東野戦歿者慰霊碑
1960年10月2日
安佐南区東野二丁目22番20号(善教寺境内前)
戦歿者慰霊之碑 昭和35年9月 広島県知事 大原博夫敬書
原01
祇園東01
原忠魂碑
1967年8月(改修)
安佐南区西原六丁目13番(冬木神社前)
忠魂碑
祇園01
祇園01
祇園慰霊碑
1970年7月
安佐南区祇園二丁目21番12号(安神社境内)
国のため 行きて帰らぬ みたまを しのびて (台座正面)
祇園02
祇園02
大下学園祇園高等学校職員生徒慰霊碑
1954年9月22日
安佐南区祇園二丁目33番16号(AICJ中学・高等学校内、正門奥の中庭)
しづかなる 山のふもとの 学び舎に 君をしのびて われはげむべし(横の歌碑)
山本01
祇園03
山本忠魂碑
1967年8月(修復)
安佐南区山本一丁目9番(「山本小学校前」バス停前)
忠魂碑 陸軍大将鈴木荘六書
長束01
長束01
長束忠魂碑
1954年4月29日(修復)
安佐南区長束二丁目1番(ネッツトヨタ広島祇園店西、蓮光寺専用駐車場内)
忠魂碑 陸軍中将 大谷喜久蔵書
伴01
伴01
伴忠魂碑
1955年3月(修復)
安佐南区伴中央四丁目7番18号(専念寺前)
忠魂碑 陸軍中将正四位勲一等功二級男爵 真鍋斌書
伴02
伴02
広陵中学校職員生徒慰霊碑
1965年8月
安佐南区伴東三丁目14番1号(広陵高等学校内、正門入って右奥)
慰霊

原爆関連の慰霊碑等の概要(安佐北区内:16基)

地区
小学校区
中学校区
名称
建立年月日
所在地
碑文、追悼歌(注)
井原01
白木01
井原甲田慰霊碑
1969年3月
安佐北区白木町井原(「甲田」バス停前)
慰霊碑
井原02
白木02
井原地区平和の碑
2005年8月6日
安佐北区白木町井原(栄堂橋南詰西)
ひろしまの被爆体験を未来への警鐘として平成元年(1989年)「井原原爆被爆者の会」を結成し、5年毎に地区内の三ケ寺(浄満寺、養泉寺、高源寺)に於いて物故者追悼法要を厳修し被爆者による犠牲者の安らかな眠りと、平和への思いを新しくして被爆の実相を正しく後世に伝え、核兵器の廃絶、世界の平和と地域社会の繁栄を広く呼びかけ生ある限り人間の尊厳を求めて茲に「平和の碑」を建立する 平成17年8月6日 (2005年)
井原03
白木03
大寺慰霊碑
1975年4月
安佐北区白木町井原(荒神社境内)
慰霊碑
志屋01
白木04
志屋慰霊碑
1975年10月
安佐北区白木町志路(県道68号大林井原線、龍福観音堂上り口付近)
慰霊碑
三田01
白木05
三田慰霊碑
1956年9月28日
安佐北区白木町三田2649番地(三田小学校内、正門付近)
慰霊碑 文部大臣灘尾弘吉書
口田東01
口田01
慰霊碑
不詳
安佐北区口田南八丁目48番(教蓮寺矢口が丘墓苑内)
南无阿弥陀佛
大林01
三入01
戦没者慰霊碑
1976年8月15日
安佐北区大林町3697番地(大林八幡神社境内)
戦没者慰霊碑
可部01
可部01
福王寺原爆聖靈供養寶塔
1971年8月6日
安佐北区可部町綾ケ谷251番地(福王寺境内、大師堂前)
南無大師遍照金剛尊(側面)
同一性故入■字(背面)■≒阿
可部南01
可部02
可部地区原爆被爆者慰霊碑
不詳
安佐北区可部東四丁目2番13号(曼荼羅寺観音堂前)
原爆被爆者慰霊碑
亀山南01
亀山01
亀山原爆犠牲者の碑
1990年2月4日
安佐北区可部町大毛寺(亀山五丁目47番から福王寺山へ登る。福王寺山南麓)
昭和20年8月6日8時15分 原爆投下の際落下傘の落ちた地点 武田元繁後裔14世 安光覚遊建之 平成元年3月 題字 八十八翁 津恵保夫
鈴張01
清和01
鈴張慰霊碑
1969年12月7日
安佐北区安佐町鈴張(鈴張小学校裏)
慰霊碑
鈴張02
清和02
鈴張原爆慰霊碑
1970年8月
安佐北区安佐町鈴張1965番地(長覚寺境内)
原爆慰霊碑
小河内01
清和03
小河内戦没者慰霊碑
1969年3月21日
安佐北区安佐町小河内3234番地(大歳神社付近)
慰霊碑
飯室01
清和04
飯室忠魂碑
1971年4月29日(改修)
安佐北区安佐町飯室(養専寺前)
慰霊のことば このたび累次の戦いに尊い命を捧げられた方々の霊をこの碑に合祀し慰霊いたします。 どうぞ故郷の地に永久に安らかにお眠り下さい。 昭和46年4月(台座正面)
久地01
清和05
久地忠魂碑
1970年7月12日(改修)
安佐北区安佐町久地(「久地本郷下」バス停前)
忠魂碑 陸軍大将宇垣一成謹書
日浦01
日浦01
日浦慰霊碑
1971年12月
安佐北区安佐町後山(「後山農協前」バス停北200メートル)
慰霊碑 広島市長 山田節男謹書

原爆関連の慰霊碑等の概要(安芸区内:1基)

地区
小学校区
中学校区
名称
建立年月日
所在地
碑文、追悼歌(注)
中野01
瀬野川01
瀬野川地区原爆死没者追悼碑
1994年7月24日
安芸区中野三丁目9番(中野第二公園内)
碑文 第2次世界大戦が終局を迎えようとする昭和20年(1945年)8月6日広島に 9日長崎に 人類史上初の原子爆弾を投下され 両市は一瞬にして焦土と化し広島では20数万人が尊い命を奪われた。 黒こげになった屍の山、眼球や内臓のとびだした死体、黒こげの満員電車、倒れた家の下敷きになり生きながら焼かれた人たち、人の世の出来ごととはいえない無残な光景であった。 瀬野川地区でも建物疎開、学徒動員等で172名が死没され、4,446名の方が学校、寺院などの臨時救護所に収容された。(瀬野川町誌20年8月31日現) 被爆50周年を迎えるにあたり 死没された方の追悼と「人類とは共存できない核兵器の廃絶」2度と被爆者をつくらないことを後世に伝え、世界平和を祈念してこの碑を建立する。 1994年7月 瀬野川地区原爆被爆者の会(背面)
 

原爆関連の慰霊碑等の概要(佐伯区内:7基)

地区
小学校区
中学校区
名称
建立年月日
所在地
碑文、追悼歌(注)
湯来東01
湯来01
水内慰霊碑
1960年11月
佐伯区湯来町麦谷1803番地の1(湯来東小学校前)
慰霊碑 広島別院輪番小笠原彰真書
湯来東02
湯来02
湯来町原爆死没者慰霊碑
1996年12月5日
佐伯区湯来町和田333番地(サンピア湯来構内)
被爆50周年にあたり、原子爆弾により尊い命を奪われた数多くの御霊に捧げるために、ここに原爆死没者慰霊の碑を建立する。 私達、被爆者は、被爆50周年を新たな出発点として、再び悲劇を繰り返さないため、核兵器廃絶と恒久平和の実現に向かって、なお一層努力することを誓います。 平成8年3月 湯来町原爆被爆者の会(背面)
湯来西01
湯来03
上水内慰霊碑
1959年9月
佐伯区湯来町多田2416番地(河内神社境内)
慰霊碑 広島県知事大原博夫
湯来南01
砂谷01
砂谷慰霊碑
1956年9月30日
佐伯区湯来町伏谷25番地の1(西光寺境内)
慰霊碑 昭和31年9月30日 龍谷勧学文学博士 大江淳誠
五日市中央01
五日市01
佐伯区原爆死没者慰霊碑
1995年7月2日
佐伯区五日市中央六丁目1番(五日市中央公園内北東)
被爆50周年記念 平成7年8月6日 財団法人 広島市原爆被害者協議会佐伯支部建之(背面) 
広島の願い 平和の継承(碑前の被爆石)
昭和20年(1945) 8月6日午前8時15分 あの日 あの時 あれから 50年 世界のはてすべてに 広島の願い 平和つなぎうけつげ いつまでもいつまでも(碑右前の被爆石)
五日市01
五日市02
五日市町原爆死没者慰霊碑
1965年5月23日
佐伯区五日市二丁目1番1号(光禅寺参道)
原爆の犠牲となった人々を忘れず 原水爆のない平和な世界を築こう(正面) 
原爆慰霊碑由来 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分広島の上空570メートルで世界最初の原子爆弾が投下されました その日は雲一つない晴天真夏の太陽がじりじりと照りつけはじめたとき1発の原爆は閃光と同時に大音響を発し瞬時にして20数万の尊い人命を奪い街を廃墟と化した 当時五日市町から広島市内各職場への通勤者軍指示による建物疎開作業者市内に点在する公共の事業場兵器廠、被服廠、糧秣廠、軍需品の生産工場へ動員されていた生徒および女子挺身隊員など多数の町民が原爆の惨禍に遭遇しました 原爆はただ単に瞬間的破壊力や殺傷力が大きいだけでなく放射線によって人体の細胞組織まで破壊し永続性的原爆症の障害を終生払拭することはできません 人類が生きつづけるために再び戦争を繰り返してはなりません 原爆を体験した私たちは生証人として非人道的な原水爆の禁止を強く訴えるとともに原爆犠牲者の霊をなぐさめるためにここに原爆慰霊碑を建立しました 七尾中学校吉野誠教諭による慰霊碑のデザインは人間が合掌した像を表現したものです 碑文は広島大学教授文学博士森滝市郎氏の揮毫で蒲谷組株式会社が工事を担当 光禅寺さんのご協力でこの地に1965年(昭和40年)5月23日被爆20周年を記念して町民の浄財で原水爆禁止五日市町協議会が建立しました なお慰霊碑には234名の原爆死没者の氏名を謹載した過去帳と5柱の遺骨が安置されています(碑横)
五日市02
五日市03
五日市町原爆・戦災犠牲者慰霊碑
1965年8月6日
佐伯区五日市二丁目2番9号(正向寺境内、本堂南)
怨親平等 戦病死者 原爆死者之霊

コメント